藤幡正樹「メディアアートをめぐるコンテクストの形成」 ( 仮題 ) 注: 最終版ではない模様。 藤幡正樹インタビュー 聞き手・構成=東京藝術大学大学院映像研究科紀要編集部(2014年) 「日本を記録する 8 ミリフェスティバル」 小学校時代は理科少年でした。担任の先生に気に入られて、理科の授業の前の時間に実験の準備などを手伝わされましたものです。他の生徒には、その間を自習にしておいて、先生と僕だけで理科準備室に行くという感じでしたね。電気少年、工作少年、天文少年をやって、中学時代はカメラ小僧で、理科室の中にある暗室で撮った写真の焼付けをやってました。高校に入って、ステレオの自作から、拾ったテレビを自分の部屋で見るようになって、深夜映画や11 PM といったおとなの番組を心置きなく見るようになりました。子供向けのマンガ・アニメではない、久里洋二らのアニメーションが好きでした。紙やセルに描いたアニメーションばかりではなく、実写で作られたコマ撮りアニメーションなど、非常におもしろかったですね。そんなことから、友だちのお父さんが持っていた 8 ミリカメラを借りるようになって、それを借りっぱなしにして、いろいろな実験をしていました。この頃につくったアニメーション作品は、第六回恵比寿映像祭(「おくりもの──藤幡正樹 Expanded Animation Works 」[二〇一四年二月一五日/二〇日/二三日])でも上映しました。 高校三年生のときに、読売新聞社が主催する「日本を記録する 8 ミリフェスティバル」に高校生の部が新設されたという記事を新聞で読み、大島渚監督が主旨を説明するような会があったので行ってみることにしました。このときにいろいろな高校の映画をつくっている連中と仲よくなりました。都立西高校の映画サークルいた樋口良澄君とは、その後岩波から出した『先端芸術宣言』では、お世話になりましたし、また東京大学に進学して、今は慶應義塾大学で理論物理学を教えている高野宏君などとも、そこで会いました。 実際の作品編集の作業などは、当時通っていた塾の先生の家でやっていました。その塾の先生というのが変わった方で、僕は随分とお世話になりました。奥さまが小説家で、ご主人は元岩波写真文庫の編集者でした。ご主人が体調を崩されたのをきっかけに、仕事を辞めて、横浜の郊外...