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藤幡正樹インタビュー

 藤幡正樹「メディアアートをめぐるコンテクストの形成」(仮題)  注:最終版ではない模様。

藤幡正樹インタビュー

聞き手・構成=東京藝術大学大学院映像研究科紀要編集部(2014年)


「日本を記録する8ミリフェスティバル」


小学校時代は理科少年でした。担任の先生に気に入られて、理科の授業の前の時間に実験の準備などを手伝わされましたものです。他の生徒には、その間を自習にしておいて、先生と僕だけで理科準備室に行くという感じでしたね。電気少年、工作少年、天文少年をやって、中学時代はカメラ小僧で、理科室の中にある暗室で撮った写真の焼付けをやってました。高校に入って、ステレオの自作から、拾ったテレビを自分の部屋で見るようになって、深夜映画や11PMといったおとなの番組を心置きなく見るようになりました。子供向けのマンガ・アニメではない、久里洋二らのアニメーションが好きでした。紙やセルに描いたアニメーションばかりではなく、実写で作られたコマ撮りアニメーションなど、非常におもしろかったですね。そんなことから、友だちのお父さんが持っていた8ミリカメラを借りるようになって、それを借りっぱなしにして、いろいろな実験をしていました。この頃につくったアニメーション作品は、第六回恵比寿映像祭(「おくりもの──藤幡正樹  Expanded Animation Works」[二〇一四年二月一五日/二〇日/二三日])でも上映しました。

高校三年生のときに、読売新聞社が主催する「日本を記録する8ミリフェスティバル」に高校生の部が新設されたという記事を新聞で読み、大島渚監督が主旨を説明するような会があったので行ってみることにしました。このときにいろいろな高校の映画をつくっている連中と仲よくなりました。都立西高校の映画サークルいた樋口良澄君とは、その後岩波から出した『先端芸術宣言』では、お世話になりましたし、また東京大学に進学して、今は慶應義塾大学で理論物理学を教えている高野宏君などとも、そこで会いました。

実際の作品編集の作業などは、当時通っていた塾の先生の家でやっていました。その塾の先生というのが変わった方で、僕は随分とお世話になりました。奥さまが小説家で、ご主人は元岩波写真文庫の編集者でした。ご主人が体調を崩されたのをきっかけに、仕事を辞めて、横浜の郊外で学習塾をはじめていました。僕はその塾に小学校の四年生から六年生まで通っていました。途中、大阪に引っ越した関係でその塾からにも遠くなっていましたが、高校時代に入って古文が苦手だったこともあって、また通うようになりました。ご主人はなにを訊いても答えが返ってくるような博覧強記の方で、僕がおもしろいと思っていること話すと、それについて解説してくれたり、意見を言ってくれたりしました。新しいものばかりではなくて、日本の古いものも知っておけとアドバイスされたりもしました。

親に映画をつくっているなんて言ったら、「高校三年生で受験を控えているのになにをやっているんだ」と怒られるのが目に見えていたので、塾の先生の家で隠れて映画の編集をさせてもらっていました。かくまって貰った感じですね。この頃、川本喜八郎さんと岡本忠成さんが連続で開催していた「川本+岡本パペット・アニメーショウ」(第一回は72年に東京日仏会館で開催され、その後、76年までの5年間の連続開催と79年の特別公演を経て、80年に最終回が開かれた。)というのがあり、良く見に行っていました。また、草月会館で行われた田名網敬一さんの作品上映会「シネマ・デモンストレーション」(1971)も見に行きました。学ラン着た学生が青山へ横浜から横須賀線に乗って行くわけです。ものすごく興奮しましたね。

父親は自分自身が理工系に進みたかったのに、時代との兼ね合いで進めなかったという個人的な事情があったせいか、僕には理工系に進学して欲しかったらしいですね。芸大に進むなら、せめてその中間をとって建築にしてくれとか言ってましたが、良く考えると何とも建築をやっている人に失礼な話ですよねえ(笑)。ところが、「日本を記録する8ミリフェスティバル」に送った作品(“Escaping“)が佳作をもらったとたんに、父親の態度が急に軟化し、美術系に行ってもいいというお許しが出ました(笑)。

映画祭で賞をもらったことがきっかけで、友だちの輪がさらに広がっていきました。大学に入ってからだと思いますが、東大の高野君から、スリットスキャン(Slit-Scan)ができる機械をつくったという話が飛び込んできました。実際に見せてもらったところ、ロジックICでステッピングモーターを制御して、ボレックス製16ミリカメラのズームを操作するというシステムでした。このときに初めてロジックICというものを知って「これはすごい!」と思いましたね。「論理和」とか「論理積」とか、特に「排他的論理和(XOR)」っていうのが刺激的でしたが、こうした演算が「LS7400」とか呼ばれるICチップによって実現されていることを知って、まさにカルチャーショックでした。この論理演算というものの組み合わせで計算機ができているということもこうして学びました。

スリット・スキャンは、映画「2001年宇宙の旅」の木星へ突入するシーンの特殊効果(SFX)で有名になりましたが、平面的な画像に奥行を与える技術で、実際にはカメラの前に細いスリットを設けて、それを上から下とか、左から右とか、あるいは回転させると同時に被写体も近づけたり、動かしたりして、フィルム上に作られる画像を一コマごとに変形させてゆくのです。すごい発明なのですが、高野くんが撮影していたのは、紙に上から下へ描かれた真っ直ぐな道をズームしながら、上から下へスキャンすると、それがパースの付いた奥行きのある道としてフィルムに写る、というだけの単純なものでした。それでも、こういった画像が機械的にできてしまうことに、とても驚愕したものです。手仕事で作る画像ではなく、イメージのオートメーションですね。

とにかく今振り返ってみると、何かをつくるきっかけの端々に変わった友人との出会いと新しいテクノロジーの存在がありました。僕の周りには、超マニアな人たちがいっぱいいましたねぇ。

高校から浪人時代にかけて、こうした友人たちと映画の上映会を数回一緒にやりました。上映会の企画段階から話し合いやってたし、だれかが撮影をする時には手伝いに行きました。都立西高校の連中に、早朝の新宿を撮影すると言われて、深夜上映の映画館で朝まで時間をつぶしてたのですが、泥酔してまったく役にたたなかったことありますね。上映会のあとには打ち上げもやったりもしました。総じて楽しかったですねえ。普通に高校生活を送ってそのまま芸大に進学していたら、そういう人たちには出会わなかったと思います。


“BREAK-FAST”1972 高校2年生

高校生時代、友人の父親の8mmカメラ(エルモ社のW8)をかなり長い期間借りていた。いろいろな実験をしたし、当時親に内緒で制作していた作品《ESCAPING》では、読売新聞主催の「日本を記録する映像フェスティバル」で賞も貰った。中でも、このフィルムは一応作品と呼べるもっとも最初のアニメーション作品。原画を300枚ぐらい描いたが、よく見てもらうとわかるように、原画は手のひらぐらいのとても小さいものである。それを引き伸ばし機のスタンドに付けた8mmカメラで複写した。ドラマが主体のテレビのセルアニメが好きになれず、アニメーションでしかできないことがやりたかった。描画はロバート・クラムの影響で、内容は久里洋二、技法としてのメタモルフォーゼはノーマン・マクラーレンといった風に解釈されることになるのだろうが、ともかく作ってみたかったという気持ちが先行していたのは事実である。


“Escaping” 1973 高校3年生

高校に入った時には学内にバリケードの跡形もなく、学生運動は下火になっていた。この状況で、素直に家と大学を往復する毎日に、なんらかの抵抗を感じていた。友達の新井くんの家には、ガリ版印刷のセットがあって、僕は「めざめよ学生諸君」とかなんか書いて、「めざまし新聞」というビラを刷って配ったりしていた。

映画を撮るというのはなんかそういった意味があった。なんとなく劇映画には興味がなくて、友人の杉浦くんと授業をエスケープして横浜に行くのを8mmで撮影した。それに撮影したいろいろな映像を追加編集していったものだ。最後のショットは、みんなが真面目に高校の入り口の坂を朝に登ってゆくところを撮影して、スローモーションで上映した。

このフィルムが、読売新聞社が主催する「日本を記録する8ミリフェスティバル」に高校生の部で佳作を貰うと、それまでの両親の態度が一変した。親のとっては、自分の判断よりも他人の判断が優先するらしい。


“LASS” 1974 浪人時代

古本屋で『スクリーン』『アンアン』『ノンノン』などの女性の顔が載っている雑誌をしこたま買い込んで、コツコツと複写した作品。鼻の下と目の付け根の位置だけを動かさないようにしながら、ズームを調整しつつ撮影した。フランク・モーリスの《Frank Film》(1973)というコラージュを中心とした作品があって、そうした抽象的なアニメーションが好きだった。手でいちいち描かなくとも、コマとコマの間に変化があれば、人間の視覚はそれを動きとして認識しようとする。コマごとに異なった顔が、位置のズレによって、まるでしゃべっているように見える。技術的であるとともに、見ることの認知的な過程がテーマであると解釈できるが、顔が女性に限られていることによって、アイコンとしてのファッションモデルや女優が、映像の中でのみ擬似的な生命を与えられているといった解釈も可能だろう。





芸術祭のレーザーショー


僕が東京芸術大学のデザイン科を卒業して大学院に入ったのは一九七九年です。大学院のときにはすでにさまざまな仕事をしていました。学部の卒業制作ではアニメーション作品をつくりました。

その頃、ぴあのフィルムフェスティバルやアニメフェスティバルを立ち上げた当時の取締役、黒川文雄さんと知り合いになったという経緯もあり、僕の卒業制作もぴあのアニメフェスティバルで上映されました。

学部時代はデザイン科でグラフィックデザインを専攻しましたが、大学院でもそのまま続けてグラフィックデザインを専攻していました。このときに教わったのは、日本テレビで「11PM」という番組のオープニングタイトルを製作した内山昭太郎教授です。内山先生が個人的に所有していた、1/4インチのアカイ製ポータパック(ヴィデオカメラ、ヴィデオレコーダーとモニターがセットになったもの)を借りて、《INTER-Men*Women-VIEW》という作品をつくり、その作品を読売新聞社の主催する映画祭(上記の「日本を記録する映像フェスティバル」)に出品して佳作をもらいました。

大学院に残ろうとした理由はいくつかあります。もちろんまだ社会には出たくないという気持ちが強く働いていたということもありました(笑)。ちょうどその頃、デザイン科の重鎮高田正二郎教授が、ビデオの編集セットを研究室に導入しました。それを使いたかったのというのも、大学院に進んだ理由でした。

高田先生が導入したのはソニーの3/4インチビデオ編集装置(業務用Uマチック)でした。2台のデッキを使って、カット繋ぎの編集ができましたが、タイムベースコレクター(アナログVTRの機械的な不安定さを原因とする時間軸エラーを補正するための装置)がないためにABロールを使ったオーバーラップやワイプは、できませんでした。これらの機材に詳しかったこともあり、先生が両国の花火を撮影しに行くというときに、お供させていただいたことがありますね。花火を撮るわけですが、当時のカメラでは暗すぎて、あんまりうまく映らなかったと思います。


そうした映像制作とは別に、レーザーを使ったショーの流れもありました。学部四年生のときに大学の芸術祭で、おそらく日本で初めてとなるレーザーで文字を描くイベントを行ないました。当時、日本にはレーザーショーを手がけていた会社が、たしか二社あったのですが、そのうちのひとつの会社で開発のバイトをしていたのが、小学校時代の幼なじみの後藤君でした。大学に入ってからたまたま再会し、近況を訊ねたら、レーザーの話になり、三〇万円あればレーザー装置を借りられるから、芸術祭でやってみないかという話を切り出して来ました。お金を工面し、装置を借りる算段をして、芸術祭でのレーザーショーが実現したのです。

彼は武蔵工業大学に通っていて、マイコンのプログラミングをやっていました。レーザーを制御するプログラムでは、図柄を方眼紙に描いておき、その番地を読み込んだXYのデータを作ります。レーザーを制御するスキャナー装置に連続する番地を指定することで図柄を線描きで描くのです。この当時使われていたスキャナーは、ガルバノメータ(電流計)を改良したもので、これで小さなミラーをコントロールしていました。この制御のプログラムを後藤君がマイコン上にアセンブラで書いていたのです。

レーザーショーでは、線画を切り替えてアニメーションをさせました。ウインクするミッキーマウスと「芸術祭」という文字が順次出るような演出でした。アナログ・シンセを使って音楽とシンクロさせてリサージュ図形を描く演出も準備してありました。リサージュ図形はXY2つの波形の周波数の変化で形が変化するので、音源をそのままテープに収録しておけば、音の変化と図形は完全にシンクロします。当日、テープから出た音をスキャナーに送る部分がうまくいかず、上映できませんでした。

レーザー本体を上野校地のデザイン棟入り口の庇の上に設置して、絵画棟の壁面に向けてレーザーを打ちました。当時はレーザーなど誰も見たことがなかったので、場内騒然という雰囲気になったのを今でも覚えています。ミッキーマウスでよかったのかとは思いますけど()。ともかく当時は、レーザーの光り、そのものが新しかったのです。

こういった新しい技術はつねにアメリカからやってくるものでしたが、レーザーの前後して、コンピュータ・グラフィックスも最新技術としてアメリカから、やって来ました。一九七八年に東京アメリカンセンターが主催する国際ビデオウイーク(International Video Week)というイベントで、E&SEvans and Sutherland社、CGの父と呼ばれるIvan  SutherkandDavid Evansによって作られた会社で、航空機のシミュレータ等を最初に作った会社)、Triple_IInformation International, Inc.)、オハイオ州立大学等が作ったデモビデオが上映されて、非常に強いショックを受けました。この会場には、作曲家でコンピュータの可能性に早くから着目していた端山貢明【はやまこうめい】さんや、日本ビクターに勤めながら傍らでユニークな活動をされていた柴本猛【しばもとたけし】さんなど、当時この分野に日本が乗り遅れていることに苛立ちを感じている人たちが集まっていましたね。しかし、僕はアメリカでここまで技術がきているのだとすれば、これからはディレクションの時代だ強く感じいったものでした。

その当時、テクノロジーを用いたイベントや展覧会などが多くありましたが、どれも商業施設やプロモーションが中心で、肝心の時には海外の作家が仕事を取ってゆくような状態が続いていたとおもいます。こういった技術による表現が芸術として認知さていたわけではなく、都市のデコレーションとして、広告的なコンテクストの中で、技術が利用されていたのだと思います。

振り返ってみると、この芸術祭でのレーザーショーがきっかけとなり、紆余曲折があったのちに、CG制作会社に呼ばれることになったわけで、こうした偶然の積み重ねが、その後の自分のあり方に大きく左右していることが今になってみるとわかります。


ピコピコバッジ


芸術祭のレーザーショウで使ったレーザーのレンタル料は、芸術祭の実行委員長にかけあって取った予算と、当時個人的につてのあった学生援護会(アルバイト情報誌を発行していた会社)に資金提供をお願いし、さらに自分たちで作ったLEDバッジを芸術祭で販売して捻出しました。

このLEDバッジは三角形のアクリルの板にLEDを二個つけて点滅するだけの簡単な仕組みのものでしたが、大人気になりました()。バッテリーをポケットに入れて、Tシャツの裏側からバッジをつけるのですが、暗くなってからスイッチを入れると、ものすごく目立ちます。そのバッジをつけている人がさらに売り子になってくれました。一個八〇〇円(だったか)の価格をつけましたが、飛ぶように売れました。夏休み前にレーザー・ファンクラブというのを発足して人を集めて、夏休み中にみんなで手づくりをしたのですが、二〇〇個ほどつくって、一〇万円とか二〇万円とか売り上げたはずですね。これを僕たちは「ピコピコバッジ」と呼んでいたのですが、このバッジにプランナーの真壁智治さんが興味をもってくれたおかげで、その後工作舎の松岡正剛さんやアルファレコード、さらにYMOとのつながりができたわけです。真壁さんはそもそも芸大建築科の助手をされていた方ですが、頭にターバンを蒔いて銀色のブーツを履いた超エキセントリックな方で、工作舎へも出入りされていたのです。

大学院在籍当時から、真壁さんからいろいろな仕事をいただきました。例えば、アルファレコードの仕事で、タキオンというバンドのレコードジャケットをデザインするという仕事もその一つです。プロモーションキットや蛍光オレンジのレコードなどもつくりました。ミッキー・カーチスさんがアメリカから帰ってきて最初にプロデュースするバンドということで、当時話題になったと思います。そんな重要な仕事を二三、四歳の大学院生に頼んでしまうわけですから、何だか妙な時代でした。

真壁さんからのデザインの仕事以外に、LEDを使ったICおもちゃ製作の流れが一方で続いていました。そもそも、ICおもちゃは東大の高野くんに教えてもらった論理ICからはじまっているのですが、一九八一年の大学院の修了制作では、これを発展させて大型のICを使ったおもちゃを製作しました。これがのちに「YMOテクノバッジ」へと発展していきます。

一九八〇年に中谷扶二子さんが「ビデオギャラリーSCAN」をオープンさせますが、その入り口に、赤い8セグメントLEDがチカチカと光って「SCAN」という文字を浮かび上がらせるパネルを作りました。しかし、あっという間に盗まれてしまったんですよね。当時一階の窓際に飾ってあって、文字が点滅していたため小さいながらすごく目立っていたのですが、中谷扶二子さんはとても悔しがっていらっしゃいました。



コンピュータとの出会い


レーザーショウの制御のプログラムはいわゆるワンボードマイコンで書かれたものでしたから、僕も自分用に一台マイコンが欲しいと思っていました。一九七八年当時だとNECPC-8001(一九七九)もまだ出ていません。パソコン前夜という感じの時代です。『I/O』の創刊が七六年で、『月刊アスキー』の創刊が七七年でした。

当時は、NECTK-80(一九七六)というワンボードマイコン(八桁の数字が表示可能なLEDと、データ入力を行なうための二五のキーからなる。)が主流でしたが、僕が手に入れたのは、コンパチの安いものでしたが、これを使って大学院の部屋で、音を出したりして盛り上がっていました(笑)。

それ以前は、白土義男さんの『ロジックICの組み方(1981/1) という本が愛読書で、それを参考にしてICチップを使って発信器やカウンターをつくっていました。それで大学院に入ってから、その技術をさらに応用して先ほどの芸術祭でつくった「ピコピコバッジ」とは別に、光るだけではなくて、音が出る四角いLEDのバッジをつくりました。それを「LED曼荼羅」と呼んでいました。

それを「曼荼羅」と名づけたのは大した理由ではありません。密教的な世界観に惹かれていたということもあるんですけど、単純に四角形という形が好きだったからだと思います(笑)。そのときに印象に残っているのが、阿含宗の桐山靖雄が書いた『変身の原理』(文一出版・一九七一年)という本です。密教についての本なのですが、簡単に言うと修行をすれば仏になれる、そのための秘密の技を教えるのが密教だといったことが書いてあるわけです。あるいは、久生十蘭とか夢野久作の小説などが大学生の頃はいっしょくたになっていたんです。それで曼荼羅に興味をもったような気がします。

最初は自分がおもしろがってつくっていたものを、真壁さんや当時電通にいた佐藤雅彦さんが関わるようになって改めてつくったものが「YMOテクノバッジ」です。一九八〇年に行われたYMOの「ワールド・ツアー1980」のときは関係者用に一〇〇個、翌年は富士フィルム社製カセットテープのプロモーション用に四〇〇〇個をつくりました。

YMOテクノバッジ」の製作はたいへんな労力を要しました。最初の一〇〇個は埼玉の基板屋さんでの手づくりでしたが、プロモーション用は川崎での工場生産になり、製作管理に川崎の下請け工場まで仕上がったものを電通に届けるために通いました。バブル景気前夜という好景気のムードもあり、当時としては結構な報酬をもらったと思います。埼玉の工場では、おもしろいエピソードがありました。芸大の学生ということで、近所の洋菓子屋の仕事を紹介されて、クリスマスキャンペーン用のポスターを作らされました。そのときはYMOもケーキ屋さんも区別なく仕事をしていましたねえ(笑)。


八十年代に入るか入らないかの時期、8mm映画、アニメーション、レーザー、LED,電子工作、ビデオが自分の周りにありました。後藤くんとの再会や高野くんのスリット・スキャンがきっかけになり、大学のビデオ関連機材のこともあり、映像とコンピュータが接近してゆきます。当時、Apple IIコンピュータの周辺が話題になっていましたが、僕にとって、このコンピュータが他のPCと決定的に異なっていたのは、ビデオ出力がはじめから付いていたということでした。普段見ているブラウン管の上に文字や画像が出てくること自体が非常に新鮮である上に、出力を映像としてビデオに収録できるということを意味していました。これは、どうしても手に入れたかった。

そんなときに、ぴあの黒川文雄さんから、アニメーション・フェスティバルを開催するにあたって、『ぴあ』の表紙のイラストを描いていた及川正通さんのアニメーションをつくるから、手伝ってくれと声がかかり、16mmのアニメーション作品を製作しました。そのアルバイト代で、やっとこさApple IIの台湾製コンパチブル(互換機)を秋葉原で買いました。ハンダ付けしていないただの緑色の電子基板と部品だけで一〇万円しました。自分でハンダ付けするわけです。しかし、作っても動かなかい、おかしいので買ったお店に持っていくと修理してくれ、「すみません、基盤の作りが悪く、パターン(回路)にヒゲが生えていてショートしてました。」というわけでした。当時の電子基盤って、その程度の精度だったんですね。その後、キーボードやフロッピーディスクをはじめとして、動かすための周辺機器を買い集めたら、結局最初から本物を買ったほうが良かったんじゃないかというくらい、お金がかかりました。

これで、収入と支出を計算するプログラムをBASICで書いて、プリントアウトしたものを税務署に持っていって確定申告をしたら、それがまた信用されたのか、すんなり通った記憶があります。


秋葉原という創造の原点


一九八〇年前後、真壁さんとは工作舎経由でいろいろな仕事をしました。そもそも真壁さんは芸大の大学紛争で坂本龍一ともつながりがあったんですが、彼のソロ・アルバム『B-2 UNIT(19809月発売)の販売促進用バッジを真壁さんからの依頼でつくったことがありました。黒い塩ビの板にB2unitの文字と下の方にコンピュータ用のフラットケーブルが1cmだけ付いているといったもので、なんらかのテクノ的なシンボルが求められていたのです。僕が秋葉原でグレーのフラットケーブルを買って、印刷所に届けたものですが、中にワイヤーが入っているために切断する歯が悪くなると印刷所に嫌がられたものです。このつながりで、工作舎の松岡正剛さんとお会いすることもありました。『遊』(一九七一年創刊)にも、何回か僕を採り上げてくれたことがあります。渋谷の松濤にある工作舎の事務所に行くと、撮影の永田くん、佐々木渉さんやデザインの宮川隆さん、祖父江慎くん、編集の後藤繁雄、中島渉らが昼夜を問わず、うろうろしていました。

この時期に僕を取材したテレビ番組(日本テレビ)があり、その中で松岡さんに対談をお願いしました。印象的だったのは、松岡さんが僕を評して「藤幡君のものづくりというのは、理想の技術ひとつに絞るようなアプローチじゃなくて、例えば隣の国に電車というものがあるらしいと、それは鉄で出来たレールの上を走っているらしいけれども、うちの国にはゴムしかないから、ゴムでレールをつくっちゃうおう、というものづくりの姿勢だね。」とおっしゃっていました。そのときに「けっこうあたってるな。」と思いましたね。


工作舎そのものもいろいろな意味で注目されていました。85年のつくば博に向けて松岡さん自身がパビリオンの総合監修を行うなどの予定があったと記憶しています。そんな中で、毎年晴海で開催されていた「おもちゃショウ(1982)」の中で、タカラが提供するテーマゾーンの企画が、工作舎に任されて、僕に仕事が降ってきました。

Long Beach 1982

Message from Machine XEROX Knowledge In, Ginza SONY Building 1981

福原くん、彦坂さん、


そうした意味で、僕にとって秋葉原という街はなくてはならない街でした。一九八〇年代というとセゾン文化の最盛期ですから、東京の街で言うと池袋、渋谷、六本木について話さないわけにはいかないのですが、一方でそうした文化を支えていたテクノロジーについて話をしようとすると秋葉原を抜きには語れないと思います。芸大は上野にあるので、秋葉原に寄るのは簡単でした。いささか大げさですが僕にとって秋葉原はまさに創造の原点と言っていいと思います。秋葉原のエッセンスを渋谷で売る感じですね。

秋葉原でなんらかの部品を買おうと思っていろいろ見比べていると、いろいろなことが見えてきます。例えば、部品に色が塗ってあったりすると、性能は同じであっても、上品な色の会社とそうじゃない会社が見えてきます。例えば、ある店頭にヨーロッパ製の高級なスイッチが置いてあるんですが、それが発泡スチロールのケースに入れられている。しかも、そのケースがクルミの形を模した色と形をしているんですよ。いかに彼らがその製品を愛しているか、購入してしまえば捨てられるはずのパッケージが、いかにそれが包んでいる製品が貴重なものであるかを語っていましたね。それを目にしたときに、製品になったときには見えない部分にも、ものづくりの態度が表われていると感じて、ものすごく感動しましたねぇ。

そういった精神を言葉で表わすと、工業製品の中にも霊魂が宿っていると感じるわけで、これはモダンの中に宿るアニミズムと言えるかもしれません。このアニミズムは物神(フェティッシュ)性の問題でもあります。どこにでもあるような何げないものであっても、どこにロゴや社名を入れているかでずいぶんとちがってくる。スプーンの裏側に人の形を刻印していたりすると、それだけでものに対する愛を感じたりもします。性能だけにではなく意匠にもこだわりが入ってくる。しかも工業製品として組み込まれたら見られることもない部分、そういうところにまで配慮が行き届いた会社の製品は、そもそも性能がよかったりするわけです。悪く言えば、マニュファクチャーの時代を引きずっているともいえますが、だいたいこういう良い製品は値段が高い。そういう市場原理に反するような製品を作っている会社、完璧なものをつくろうとする会社は製品が長持ちしすぎることもあって、価格競争に負けて、つぶれていきますけども。

このあたりはまさに消費社会の宿命ですね。会社は、製品を適当に壊れるようにつくらないと経営を維持できない。消費社会におけるものづくりのさまざまな側面を秋葉原では見せつけられましたね。

近年、秋葉原はアニメやフィギュアの街として知られるわけですが、物神(フェティッシュ)性やアニミズムが依然として、顕著に表出している街だと思います。その意味では、戦後闇市からの秋葉原の特徴が連綿と続いています。日本のエンジニアの多くはアニミズム的な信仰を最新技術を用いたものづくりにも抱いていると思います。単なる合理性ではできていない。そういう両義的なものづくり感覚が、当時秋葉原と渋谷を往復している間に自然と身についたのかもしれません。


日本のメディアアートのコンテクストのなかでも、都市としての秋葉原はものすごく大きな位置を占めていると思います。消費のなかで創造性が鍛えられる環境ですね。当時秋葉原で買い物をする際には、イニシエーションがあって、客の言葉遣いや知識に対して、これを知っていたら売ってやるというようなハードルがありました。そもそも同じ性能の製品でも異なるメーカーのものがずらりと並んでいたりするので、ある程度勉強していかないと思い通りの買い物ができない。秋葉原でへたなことを言うとばかにされます。なぜ同じ部品でも価格がちがうのか、お店の人に訊いてもなかなか教えてくれませんからね(笑)。

最近の秋葉原はそういう傾向が見られなくなりつつありますが、当時はとにかく秋葉原のお店で貴重な情報が得られました。「これが売れているよ」とお店の人が教えてくれる。理由ははっきり言わないのですが、よくよく聞き出してみると、あるメーカーの人がごっそり買っていったということを教えてくれたりする。競争相手の企業が特定の部品を買っているということがわかれば、現在開発中の、次の商品のイメージがわかってしまう。インターネットでは決して到達できない、そういう情報が得られる場所だったんです。今は、ネット通販になってしまって、顧客どうしの情報交換もありませんからね。当時、LEDバッジをつくるための部品は全部、秋葉原に行かないと買えなかった。それもバラバラの店でかう。同じものをいっぱい買ったりすると「なにに使うの?」とか訊かれたものです。こうやって秋葉原で買った部品を、組み立てて原宿に持っていくと、おもしろがられたというわけです(笑)。


野々村文宏 宝島別冊 取材

アスキー出版、ログイン編集部


アニメーションからコンピュータへ


そもそも、僕のアニメーションへの関心はドラマ(物語)としてのアニメーションではなく、表現としてのアニメーション、つまりどのように絵が動いているかということのほうに興味がありました。レーザーやLEDバッチ(ピコピコバッチ)などへの好奇心も含めて考えると、総じてこれはキネティックなものへの興味だったと言えるかもしれません。例えば、『鉄腕アトム』のアトムが三〇分の番組のなかで最後までアトムであり続けるのは、アニメーターが一生懸命アトムを描いているからです。しかし、実際は複数のアニメーターの手によって描かれているため、表情を揃えることもそう簡単なことではありません。アニメーターという立場から考えて見ると、アトムがアトムであり続けるよりも、リンゴになったりコーヒーカップになったりしてしまうことのほうが自然なのです。ここにアニメーションという表現の大きな可能性があるはずなのに、誰もそれを追求していない気がして、僕は我ながらすごく興奮してしまいました。

アニメーションにおける、こういった変形する表現のことを、カナダのアニメーション作家ノーマン・マクラレンが「メタモルフォーゼ」と呼ぶということを知ったのもその頃です。カナダと言えば、カナダ大使館にはすいぶんお世話になりました。カナダ大使館に行くと、マクラレンやその後継者であるライアン・ラーキンの作品を無料で借りることができたので、16mmフィルムを借りてきては、家や学校でコマ落としして見ていました。


 一九八一年に、パイオニア株が、LDソフトの製作子会社レーザーディスク株式会社を新設立するときに、新規採用の募集があったので受けに行ったことがあるんです。そのときに待合室で仲よくなったのが、のちにボイジャーを立ち上げることになる萩野正昭さんです。萩野さんはその前に東映の教育映画部でドキュメンタリー映画などをつくっていたらしく、「所詮ドキュメンタリーといっても嘘ばかりだ。やってられない」とか言ってましたね(笑)。萩野さんは、見事採用になり、数年度に彼からインタラクティブなLDを作成する仕事をもらったことがあります。西部劇に出てくるような酒場でトランプゲームをやるという設定で、対戦相手のどのカードを引くのかをコンピュータで入力させることで、次のチャプターへ飛ぶというものです。そのために全部で16個の異なった結末を用意するといったことをやりました。実際には、手塚眞くんと佐藤雅彦さんに入って貰って、手塚くんの友人や僕の友人のオーストラリア人に出演してもらい、東大マイコンクラブの友人にコントロールするプログラムを書いてもらいました。


  そもそも、アメリカンセンターのイベントにも来ていた柴本猛さんは、後藤くんからのつながりで知り合ったのですが、昼間はビクターに勤める真面目なサラリーマンなのですが、自宅のほかにもう一軒家を借りていて、そこを自分の研究所みたいにしていました。業者から評価用に借りてきたコンピュータ(フロッピーユニット付きのCP/Mだった。)を見ながら、借りている間に、もう一台デッドコピーを作ってしまうような人でした。おそらく当時の大企業の中では評価されないような技術力を持つ人が、その好奇心の対象をコンピュータへ、今の用語で言えば、その応用であるコンテンツへ向けていたということでしょうか。彼のところには異なった業界のさまざまな人たちが相談に来ていたようです。それも夕方5時以降、たいがいは深夜の話です。


 芸大のデザイン科教授の望月積先生から頼まれて、日本ユニバックが始めるANTICSという2Dのコンピュータアニメーションのソフトウエア開発に関わることになりました(1981−1982)。(紹介されたのは、望月先生の自宅マンションの隣人で東通の方でした。)もともとはグラフィックデザインやアニメーションをやっていたAlan Kitchingというイギリス人が作っていたプログラムがあり、これを日本で実用化させようということでした。ユニバックの大型コンピュータに、大型のタブレットをつなぎ、ビデオでのコマ撮りができる装置を繋ぐといった開発が行われていました。このプロジェクトには日本アニメーションと東通(主にTBSの技術協力会社)が加わっており、日本のお家芸であるセル画のアニメーションを効率化させるつもりだったようです。しかし、片一方で3Dのコンピュータ・グラフィックスがあちこちで見られるようになるにつれて、2D の変形操作が中心のこのプログラムは受けが悪かったようです。

 昼間はコンピュータがフル稼働しているために、タブレット等の反応が悪いので開発が進まず、作業はほとんど深夜でした。仕事は、アランが書いた新しい機能をデバッグするといった毎日(毎晩)でした。それでも、当時ドラマといえばTBSと言われる中でもっとも名を馳せていた服部晴治さんが演出するTBSドラマのオープニングタイトル(「あまく危険な香り」1982年。音楽は山下達郎)の制作を、東通の坂井滋和さんと手伝いました。この時にビデオのフレームメモリーや、ビデオデッキのコントローラを作っていた東通の方と仲良くなり、ここでの経験が後のCG会社で役立つことになります。


 この時代、アメリカではMITのメディア・ラボ(1985年設立)の前身にあたるアーキテクチャー・マシン・グループ(1980)が、ニコラス・ネグロポンティの元に動き出している時期であり、それまで個別に発達して来たアニメーション、映画、コンピュータといったメディア技術が、世界的にも序々につながり始めた時代でしたが、日本ではこうした動きをまとめてゆくような動きはほとんどなく、追いつくことに必死だったのだと思います。



西武セゾングルーブとCG


大学の後輩の姉で、当時富士通に努めていた方が、『月刊RAMRandom Access Magazine)』(ASCIII/Oという雑誌と並ぶマイコンあるいはPC関連の情報雑誌だった。廣済堂出版。)というコンピュータ雑誌の編集者を紹介してくれて、そこへ出入りするようになりました。この雑誌にいちばん最初に書いたのが、「YMOテクノバッジのつくり方」という記事です。この雑誌は、田尾陽一さんがはじめた民間シンクタンクであった生活構造研究所が編集を行っており、同じ場所にマイクロ・コミュニケーションズというソフトウエア開発の組織があり、PascalLispといったプログラミング言語をCP/M等のコンピュータに実装して売っていました。そこは東大のマイコンクラブの連中なんかが出入りしていて、働いているメンバーもそうしたマイコンクラブ上がりの人たちですが、かれらは超優秀な人たちで、海外で公開された論文を読んでは、それをすぐにインプリメントできてしまうような人たちでした。後にソニーで「NEWS(1987年発売)」というUNIXマシンを開発することになるメンバーの一人である手塚宏史も当時そこにいました。マイクロコミュニケーションズは、当時としては、かなり先進的なグループだったと思います。これを率いていたのが英憲悦さんでした、その英さんから、そこで開発していた、G-LISPというグラフィックスに特化したLISP言語のプロモーションのための16mmアニメーション制作の依頼を受けます。G-LISPLISP言語の上にグラフィックス機能を付加したもので、影の計算も行う優れものでした。フィルムはマイコンフェアみたいな場所で、製品の横で上映されたのだと思います。

その後に、こうした仕事がきっかけとなって、1981年の暮れか1982年に、英さんが西武系の資金で新しくできるCGの会社(SEDIC Inc.)に引きぬかれた時に、いっしょに僕を呼んでくれたのです。


SEDIC(西武デジタルコミュニケーションズ)は西武セゾングルーブのメディアプロジェクト部門として設立された会社で、そもそも六本木のシェル石油のガソリンスタンドの跡地利用からはじまっています。当時の西武百貨店は、まだ銀座へは進出しておらず、池袋よりも東に進出する機会を伺っていたのです。西武百貨店の六本木支店として始まったのがWAVEビル(一九八三年にオープンし、一九九九年にクローズした、旧セゾングループの「音・映像」に特化した商業施設)であり、プロジェクトはデジタル技術や最新メディアというものに焦点が合わされ、フルデジタルの音楽録音スタジオの下の階に、CG制作会社としてSEDICがスタートします。

その英さんを西武から引き抜いたのが東豊彦【ルビ:アズマトヨヒコ】さんという人です。もともとはラジオ関東のプロデューサーだった人と聞いていますが、西新宿の空き地でレーザーを使ってピラミッドを描くというイベントをプロデュースしたのがきっかけで、デジタルの世界に足を踏み入れるようになったのだそうです。その東さんが、これからはCGの時代だと言って、セゾングループ代表の堤清二さんを口説いて、CG制作会社を入れたのです。WAVEビルは、建物の外壁には山口勝弘さんの作品があったり、レコードやCD等の音楽コンテンツや書籍販売が充実していて、当時の若者には話題の場所でした。


一九八二年にボストンで開かれたSIGGRAPH(アメリカで毎年開催されるCGを中心としたデジタルメディアの国際的な学会・展覧会)に、セディックのメンバーとして、はじめて行きました。この時には、まだビルも建っていませんし、コンピュータも手元にはありませんでしたから、なんとも気軽るな海外出張で、ボストンの後に西海岸まで回ってほぼ1ヶ月近くアメリカを見て回りました。

当時のSIGGRAPHは、まだまだ手作り感満載で、当日参加者が持ってきたフィルムをその場で上映するような感じでした。上映プログラムも当日コピーしているような状態で、今のような審査などありませんでした。

その翌年の一九八三年にデトロイトで開催されたSIGGRAPHで、僕たちは《Mandala 1983》を上映することになるわけですが、この頃のCG業界では、当時NHKディレクターだった吉成真由美さんが大きな役割を果たします。

吉成さんは日本のCGを盛り上げたキーパーソンのひとりだったと言ってよいと思います。当時彼女がアメリカから戻ってくると、ヴィデオテープをごっそり持ち帰って来るので、日本の業界関係者がこぞってそれを借りて見ていました。メディアの人という利点もありますが、多くの日本人には彼女ほどの交渉力がないので、なかなか最新のCGを手に入れることができなかったんですね。彼女のところにはいつもCGの最前線ありという感じでした。


NHK『ニュースセンター9時』のオープニング映像をCGでつくる


NHKの看板報道番組『ニュースセンター9時』が、一九八三年の四月を機にリニューアルすることになり、オープニング映像を新しくCGで製作して欲しいという話が舞い込みました。実際には、たぶん吉成さんからの推薦があったのだと思います。この時には、まだWAVEビルが建っておらず、われわれは霊南坂のマンションの一室を借りて、そこをスタジオにして作業をしていました。

持っていた機材では、十分な作業ができないということで、機材を借りなくてはならない状態になりました。UNIX OSに画像を表示するためのフレームメモリーが繋がっているところがおいそれとあるわけはなく、結局なんとライバル会社であるJCGLにお願いしてVAX-11を使わせてもらうことになりました。ところがVAX-11を使っても、すべての計算が終わるのが三カ月先だということが判明し、放映に間に合わないとなった。それで当時世界最速だったアメリカ製のCray-1というコンピュータを使う話が浮上します。

Cray-1は当時三菱総合研究所が日本総代理店になっていて大手町に一台あり、以前からそれを借りたりもしていました。演算速度は一六〇MIPS(一秒間に実行できる命令数で単位は一〇〇万、million instructions per second)だったので、いま手元にあるノートパソコンよりもはるかに性能は劣りますが、当時としては圧倒的なスペックのマシンでした。ただ、恐ろしく高価なマシンだったので、借りるだけでも一秒あたり一〇〇〇円というとんでもない金額でした。三菱総研に相談して、ミネアポリスにあるクレイ・リサーチ本社のマシンを無料で使えるように談判してもらい、急遽アメリカに15秒のタイトルのために行くことになりました。

クレイ・リサーチ本社では出荷前のチューン中の製品を使わせてもらうことになったのですが、その製品は毎日向こうのエンジニアたちが、どういう状況でマシンがダウンするかというテストをしているマシンでした。なので、このデバッグの合間に計算プログラムをかけると、結果が出る前にクラッシュしてデータが消えてしまう(笑)。しかたがないので、夜中に働くことにして、朝になったらホテルに帰って寝るという生活を一〇日くらいしていました。

計算から表示までのプロセスも、いま考えると超絶ものでしたね。Cray-1本体と僕たちが使っている端末は直結していません。フレームメモリーがつながったVAX11があって、これで計算の準備をして、計算してほしいという要求をCray-1に送ります。それで計算が終わると帰ってくる。それVAXに繋がっているフレームバッファに表示させてはじめて見えるんです。画像計算がCray-1の上で5秒なのに、表示のためのデータ転送に3分とか、5分とかかかる。そんな感じだったと思います。それで作業が終わったものを磁気テープに書き出すわけです。最終的には段ボール二箱分になり、それを英さんが日本に持って帰って来たのですが、そんな大量の磁気テープなんてどう見てもあやしいので、税関で引っかかるんじゃないかとヒヤヒヤしました(笑)。その映像のデータをフィルムに焼いて現像所に出して納品というプロセスです。このオープニング映像はかなり好評で、八三年の四月からかなり長く使われていました。


Mandala1983》と《弥勒》


ニュースセンター9時とは別に、吉成さんからの紹介で一九八三年の初頭に阿含宗の出版部門から仕事を依頼されました。『コンピュータ・メディテーション』(阿含宗総本山出版局・一九八三年)という本のために、CGで曼荼羅をつくりました。出版にあたっては静止画でしたが、それを次は映像にしてみようということで、その年のSIGGRAPHに向けてつくったのが《Mandala1983》(一九八三)です。

Mandala1983》は、ガラス球が三七個並んでいる曼荼羅が回転し、光が複雑に反射するという作品です。レイ・トレーシングという技法が、1979年のSiggraphTurner Whittedによって発表され、飛躍的にCGの表現力が上がったので、大変な話題になっていました。表現力に対して計算時間がベキ乗に増えるのとアルゴリズムが大変に異なるために、レイ・トレーシングをやれるチームがまだそれほど出てきてはいない時代でした。われわれのチームは、計算量を減らすために、回転を固定して、光の反射と屈折のツリーを回転の45度分しかやらなかったのです。光がどこにどう当たったかというツリーを回転の四五度分だけ先に計算して色彩や質感は後から計算します、その45度分を裏返したりして、使い回して回転しているように見せているのです。したがって一度計算したら、回転の速度を変えたり、カメラのアングルを変えることはできませんでした。

光の反射をくり返すツリーはCray-1で計算して、その結果をいったん磁気テープに記録します。その磁気テープからデータをVAXで読み出しながら、絵の色づけを計算してゆきます。それで一定の枚数の絵が溜まると、いったん別の磁気テープに一度保存します。こんな気の遠くなるようなプロセスでやっていました。ただ、そのような工程なので、Cray-1で計算する分のコストはあまりかからないで済んでいますし、短時間に結構な長さのレイ・トレーシング作品が作れたので、その点でも驚かれたのです。

映像がすべて完成した後、音楽をP-MODELのプロデューサーをやっていた有島(神尾)明朗君にお願いしました。有島君は「ちょっとガムランっぽいのも入れますか」とか言いながら、一晩でつくってくれました(笑)。音楽はいま聴いてもよく出来ていると思いますね。

物体の色や質感を変化させるだけで表現になるというレイ・トレーシングという技術の可能性に、当時はあまり気がつている人が少なかったのかもしれません。レイ・トレーシングは物体表現を表面だけモデルとして表すのではなく、中身も詰まった物体として表現することができる計算アルゴリズムで、これによって透明なガラスといった物体を表すことができるようになりました。球体が透明になった瞬間に、SIGGRAPHの会場が突然拍手喝采になりました。

その翌年のミネアポリスで開かれたSIGGRAPHでは、《弥勒》(一九八四)という作品を出品しました。弥勒を解説するのに「シッダールタの入滅後五六億七〇〇〇万年後に救いに来る仏陀のことです」なんてことを言うと、海外では受けますね(笑)。この作品はセクシュアリティの表現がテーマになっていて、一組みの男女のカップルが登場します。最初は、彼らが食事をしたり新聞を読んだりといった日常的なシーンを挟むつもりだったのですが、時間の都合で全体を短くせざるをえなくなり、最終的にはセックスの場面しか描けませんでした。音楽は、当時いろいろ親しくしていただいていた細野晴臣さんにSEDICの音楽スタジオで作ってもらいました。深夜のWAVEビルで、細野さんが中沢新一さんを連れてきて、チベットから持ち帰った骨笛を中沢さんに見せて貰ったりしてました。


その後、84年に入って、プロデューサーの東さんがSEDICから西武百貨店のより内部に移動するに従って、どうも風向きが変わって行きました。SEDICの名前は、派手なプロモーションではありましたが、現実的に巨額を投じているわけで、リターンが見えない中で、批判もあったのだと思います。なぜこんなにいっぱい雑誌が必要なのか?とかなぜこんな高い鉛筆を使うのかとか、経理から言われるようになって、こちらはバカバカしくなってみんな順番に辞めてしまい、自然に解散してしまいました。

それで、公私ともに知り合いであった電通の杉山恒太郎さんに相談し、CF制作会社としてすでに一流の制作会社であった太陽企画を紹介してもらい、太陽企画のCG制作部門の立ち上げを手伝うことになったのです。そのためにこれまでSEDICで、ずっといっしょにやってきた太田昌孝くんに声をかけ、二人で新しい場所に移動したのです。この時に太陽企画との契約のために作った会社が「株式会社フロッグス」で、この名義でマガジンハウスの「ブルータス」に連載もしていました。このページのイラストはすべてアップル社のマッキントシュで動いていたマック・ペイントで作ったもので、当時は今のようなフィルム出力が無かったので、いったんレーザーライターで出したものを版下として作りなおして、入稿していました。アンチエリアジングのかかっていない、ギザギザした線が、手では描けない線なので、それが非常にクールで新鮮でしたね。後に、松本弦人くんや、高城剛くんが、当時の驚きを語ってくれたことがあります。



ビル・ヴィオラとの出会い


実際には、八〇年代の東京に、さまざまなアーティストが来日していますが、全体的に現代美術は海外の文化現象の一部でしかなかったように思えます。この時代にアートとテクノロジーが、意外と親和性があるのではないという認識が共有されつつあったことは事実です。でも僕がアーティストとして自覚を持つのは八〇年代後半に入ってからです。僕個人としてはそういう八〇年代の同時代性とは直接の関係はなく、次第に自分がやりたいことと時代がそぐわなくなってゆくんですね、そこからもっと本質的な創造作業をしたいと思うようになってゆきました。そういった変化の場面で、ひとつの道標としてあったのは、八〇年代前半に日本に滞在していたビル・ヴィオラです。

ビルさんを紹介してくれたのは、当時「ビデオひろば」から「ビデオギャラリーSCAN」へと活動の場を移していた中谷芙二子さんです。その意味で、中谷さんもアーティストとしての姿勢を与えてくれた恩人の一人です。ある時に、中谷さんから連絡があって、ビル・ヴィオラのワークショップに参加する人がいないかしら、と中谷さんから訊ねられたので、僕の奥さんである黒塚直子さんを紹介しました。ワークショップが終わった後も制作を続けていた彼女は、結局ビデオ作品を一〇本くらい作ってSCANで個展を開催、非常に評価が高く、そのうちの何本かはニューヨークMoMaに買い上げられています。


ビルさんは、一九八〇年日米友好基金の奨学金を受け来日し、十八か月間滞在しました。その間ソニーのアーティスト・イン・レジデンスとして、当時のソニーの高性能ヴィデオカメラを貸与され、日本中を旅行して、《はつゆめ》という素晴らしい作品を制作しました。

滞在中に、中谷さんのところで開かれるパーティーには良く行っていましたから、ビルさんともいろいろな話をしました。ビルさんとパートナーのキラ・ペロフさんは、田中大圓さんという名古屋にある禅寺のお坊さんに付いて修行をしていましたが、一度大圓さんが名古屋から東京へ出てきている時に、六本木のドーナッツ屋でいっしょにお会いしたことがあります。ふたりともすごくまじめな修行僧で、こういう真面目な受講者はあまり日本人にはいないとか、言ってましたね。

彼が帰国する際には、旅費が足りないということで、彼がもっていたパナソニック製の四分の三インチのビデオ編集装置を売りたいと言っていました。それを僕が買ったんですよ。100万円ほどだったと思います。大学院を出たばかりでありながらデッキを買えるくらいの余裕があったんですよねえ。そのデッキはもう動かなくなってますが、捨てられなくて、いまでも倉庫にしまってあります。編集機を手に入れたということで、それ以降は展覧会のドキュメント制作などビデオ編集の仕事をしました。こういう仕事がけっこうあったので、すぐにデッキの代金は回収できてしまった。カメラも持っていたので、撮影をして編集まで行なえば、四、五本制作すると回収できたような記憶があります。

そういえば、印象に残っている会話で、「日本の才能のある作家は、みんなコマーシャルの仕事の方に行っちゃうんだな。」と彼は言うわけです。つまり、そうした創造性を受け入れる社会的な土壌がないと。その言葉には考えさせられましたね。

あとになって彼に聞いた話ですが、アメリカに戻って、サンフランシスコ芸大(San Francisco Art Institute、ビデオ学科が早い時期からあった。)で、《はつゆめ》を上映したら、途中で学生がどんどん席を立ってしまったそうです。ですから、アメリカでさえも、彼の作るような作品が諸手を挙げて受け入れられているわけでもないんだということも学びました。

ビルさんがもっていた作家としての態度、たとえば機材に対しても、撮りたいものに対しても、すごく真摯な姿勢で取り組んでいるところ、それがまた最終的に出てくる映像にも如実に表われているわけです。一つひとつの映像をめぐって、慈しみをもって撮っているというか、対象がそのときそこにしか存在しないということを深く理解しながら撮っている。

「カメラが光を捉える道具であるなら、その光というのはそのときにしか存在しない。生まれて死んでいってしまう光が撮像化されることによって記録されていく」というように、光と闇とを生と死に照らし合わせながら語っていました。ビデオでは、フィルムのように感光して物質が変化するのではなくて、光がそのまま電気に変換される側面があるので、光の捉え方がまったく違うわけですね。それが身体的な感覚として入ってくる。

そういったアーティスト、ビル・ヴィオラの活動を横目で見ながら、彼自身からいろいろな話を聞いていましたが、自分がアーティストであることを意識するのは、ずっとあとになってからでした。それまでの僕の専門性というのは、「人よりも巧い」「人よりもきれいにできる」という点であり、それだけは絶対に人に負けない自信がありました。


ところが、ある時期から僕がやりたいことと、クライアントなどから求められていることとの間に乖離が出てきた。プレゼンをしても通らなくなってきたんです。一九八七年に大日本印刷のギンザ・グラフィック・ギャラリーで《Geometric Love》というコンピュータによる彫刻作品の展覧会をやっていますが、あのあたりから自分のやっていることが単なるグラフィックデザインという枠を超えてしまっているなと気づき始めたんです。

コンピュータで彫刻を作りたいという欲求は、まったく個人的なもので、コマーシャルな枠組みにはまったくはまりません。しかも、この彫刻を作るためには、形を定義するソフトウエアとNC切削加工機が必要で、こういった分野の先駆者であった千代倉弘明さんにコンタクトを取って、工作機械メーカーの牧野フライスを紹介してもらったんですね。太陽企画のプロジェクトをいっしょに進めていた大田昌孝くんにプログラムを書いてもらって、工場は昼間しか動かないので夜に新橋でデバッグして、朝に目黒にある工場にデータを届けるという毎日を送って、銀座での展示に漕ぎ着けたものでした。この展示自体は、作品が売れるとかいう形で直接にはお金は産みません、ある種自分に対する投資として考えていたのです。展示の期間中は、テレビが複数取材に来たりして、非常に充実した毎日でしたし、話題になることでまた新しい仕事が舞い込んだりしてきたものです。


そうこうしている内に、その千代倉弘明さんから、慶應義塾大学が、一九九〇年に新しい学部(湘南藤沢キャンパス、環境情報学部と総合政策学部。インターネットにつながり、全学生に電子メイルのアカウントを配るということだった。)を設立するという話が来て、そこにいっしょに参加しないかと誘われたんです。こうなってくると大学に所属した方が、企業のための仕事をするよりも、ずっと好きなことをやれるんじゃないかと思い、結局大学に行くという判断をしたのです。


201429日、東京藝術大学にて]



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クロニクル その②
技術・メディア・表現 —83年〜**年—
藤幡正樹  聞き手・構成=編集部

八十年代にコンピュータと出会い、CGをめぐってアメリカ文化とふれあうようになった後に、慶応義塾大学というアカデミックな場所に移って、ふたたびインターネットを通してアメリカと出会う。それはその後に、メディアの問題に発展し、ヨーロッパ側の文化への接点を開く鍵となった。


八〇年代

 八二年に第一次中曽根内閣ができて「民間活力導入」ということが言われるようになり、八三年にはディズニーランドがオープンしますから、まさにバブル景気のイケイケな時代が始まる頃のことです。みんな都内の移動はタクシーに乗るのが普通、みたいな時代でした。例えば忘年会シーズンにはタクシーが捕まらない。タクシー側は長距離客を狙っているので、僕らみたいな若者は全然相手にしてくれなかったですね。僕も毎晩帰りが終電以降だったので、六本木から中野富士見町までいつもタクシーで帰っていました。タクシーを降りるとコンビニでウォッカを買って、そのまま半分飲み干すという生活していて、十二指腸潰瘍になりかけました。ま、むちゃくちゃだったけれど、いつもいろんな人が家に遊びに来ていました。当時は、手塚眞くんなんかもよく泊まりに来たりして、本当に面白かったですね。

 例えば、「BRUTUS」のような雑誌は広告出稿がとても多く潤沢な編集費を使い切るために海外取材ページが多かったなどという噂もあったぐらいです。海外取材の精算をしていて領収書が足りなくて、象を借りたことにした偽物の領収書をバイトくんが書いていたという伝説もありました。六本木の芋洗坂には「東風」という映画のセットみたいなレストランがあって、そこに行くとYMOの三人が本当に奥の部屋でご飯を食べていたりするわけです(実際この店はYMOとのコラボレーションだった)。また、西麻布へ向かう坂の右側には、クライマックスというディスコがあって、ここは不良外人の溜まり場だったですね。みんな昼間は、英語会話学校の講師などをやっていて、夜はここにたむろしている。その頃は外人のいるディスコには客が集まるというので、店は外人をタダで入れる。逆差別ですよ、ひどい話ですよね(笑)。

 みんな、レコードをカセットにダビングして、ウォークマンで聴くという時代でしたが、そのうちに、ラジカセがCDラジカセになっていきます。ビデオもVHS方式とベータ方式が争っていて、ビデオカメラとレコーダーがケーブルでつながっているような時代でしたが、ある日、ハードディスクがついているビデオカメラを秋葉原の中古機材屋で見つけるっていう夢を見たことを憶えています。カメラの側面に「Ikegami」 って書いてある。笑っちゃいますよね(当時、池上通信機社は、撮像管を三本使った業務用のアナログ・ビデオカメラ製造のトップ企業)。

コンピュータ・カルチャーの変化

 当時勤めていたSEDIC(現在の六本木ヒルズの場所にあったWAVEビル内にあった西武系のCG制作会社、上のフロアにはデジタルを前提にした音楽録音スタジオがあった)には、Three Rivers Computer Corp.のPERQがありました。アラン・ケイがダイナブックというコンセプトを元に開発したXeroxのコンピュータAltoの流れを汲むコンピュータでしたが、今考えても新しいコンピューティングの世界を提案していて、本当に驚いたし、楽しかったですね。興奮しました。仕事ではほとんど使っていませんでしたが、ビットマップ・ディスプレイにレーザー・プリンタが付いていたので、もしかしたら僕がマウスで絵を描いた最初の日本人かもしれません。Pascal言語のコンパイラが入っていて、自分で乱数を使ってブラウン運動をシュミレーションするプログラムを書いたりして遊んでいました。コンパイル時にはディスプレイRAMまで使うので、コンパイル中のビットイメージの変化が画面で見える。しかも、コンパイル中はマウスのカーソルが蜂になって画面上を飛ぶんですよ。まさに「バグ」ですね。それがすごく可愛くて気にいっていました。

 WYSIWYG(What You See is What You Get)を実現させたビットマップは本当に綺麗でした。あの頃は72dpiですけれど、グーテンベルグの聖書の印刷解像度を調べると、だいたいそれぐらいの解像度だという話しもあります。それ以下になるとさすがに見るに耐えられなくなるから、視覚に必要な最低限度の解像度は、今も昔も変わらないという話を聞いたことがあります。

 一九八四年の暮れにSEDICを辞めると自由に使えるコンピュータがなくなってしまったので、自分用に購入したのがMacintosh 512Kです。これもまたアラン・ケイのAltoの影響の元にApple社が開発したコンピュータです。計算速度はそれほど速くはないのですが、マウスのカーソルの動きなどにストレスが無いように非常に巧妙に設計されていました。

 だいぶ遅れてマイクロソフトが発売したMS-Windowsを見れば、如何にAppleの設計思想が先を行っていたのかが判ります。Macintoshは、ハードウエアからユーザーの使い勝手を考えて設計されていたのですが、MS-Windowsは、なにしろMS-DOSの上にインターフェイスのためのアプリケーションとしての皮をかぶせただけでしたから、速度が追いつかない。マウスのカーソルが手の動きにまったく追従できない。これに対してMacintoshは、サクッと反応するので、機械が自分に答えてくれる感じが本当に嬉しかったし、新しくて、楽しかった。Macintoshを使っている人々のコミュニティーにもワクワクしましたね。お店とかで会っても、なんかみんなニコニコしていました。

 当時の情報科学には、アプリケーション分野としてCGと人工知能という二つの潮流があって、カメラのシミュレーションや自然界の数理学的なシミュレーションをやっている世界と、人間の知能と知性をシミュレーションしようという世界が、毎年話題に上がっていました。第五世代コンピュータのプロジェクトが八二年から始まって人工知能系の研究者は、みんなそちらに集まっていました。SFCで環境情報学部の初代学部長を務められた相磯秀夫さんは、そういった動きを作られていた中心人物のひとりだったのではないでしょうか。SEDICでの同僚であったさんも当初誘われていたそうですが、彼はそちらには行かずにCGの方へ行った。その後第五世代コンピュータはうまくいかなかったけれど、この辺りの人材が後にSFCに流れて行ったということのようです。

 

 八二年にSEDICの立ち上げメンバーと一緒にボストンのSIGGRAPHに行った帰りに、僕はサンフランシスコとロサンゼルスに寄りました。その時にビデオ・アーティストのステファン・ベックの事務所に遊びに行ったら、三〇〇ボーのモデムを使ってダイヤルアップでBBSをやっていた。当時のモデムは電話の受話器をガッチャンと装置に差し込んで音声でデータを送るので、ファックスの代わりにそのままテキストを送っているようなものでした。コンピュータ画面に文字が出力されるのが目に見えるぐらい遅いのですが、見えない他者とチャットしているのを目にして本当に驚きました。

 SEDICで仕事をしている頃、UCサクラメントに行っていた高校時代の後輩である森俊太(現在、静岡文化芸術大学教授)がオフィスに遊びに来たことがありました。僕たちがVAX11のVT100ターミナルで仕事をしているのを見て、彼が「僕が通っている学校と同じ環境ですね」と言ったのを覚えています。「みんなこれで論文を書いたりしていますよ、僕も自宅からモデムで学校のコンピュータに入って仕事をしてします」と。彼は社会学が専門で、コンピュータが専門ではないにも関わらず、すでにそういう情報環境にいたわけです。「日本が置かれている状況はずいぶん遅れてんだな」と思いました。

 この頃毎年通っていたSIGGRAPHでは、いつもアメリカの底力を見せつけられた感じでしたね。新しいアイデアが浮かんで、「あー、こういうのありだな」と思って、それを技術的にも表現的にも詰めて、次の年のSIGGRAPHへ送ると、その先を行っている連中がいるんですよ。思いつくのが同じ速度でも、それを実現するのが間に合わない。負けるんです。イマジネーションじゃ負けてないと思ったけど、実現能力の厚みが違うんですよね。

テッド・ネルソンとPDS

 テッド・ネルソンを知ったのもその頃のことです。YMOテクノバッジがきっかけで、『月刊RAM』(廣済堂出版)の編集部に出入りしていたのですが、本棚で“Computer Lib”(裏面のタイトルが”Dream Machine”)を見つけた。すばらしいデザインで、その自由さにやられてしまいました。一目見て「これはおれのための本だな」と思って、その時はそのまま家に持って帰りました。この本 “Computer Lib”はタイトルの通り、コンピュータによる革命(コンピュータを誰にでも解放する)を意図した本です。“New Freedoms Through Computer Screen and Minority Report”なんて書いてあって、ハイパーテキストはここから始まったわけです。コンピュータが人間を自由にするということですね。この本のデザインがまた素晴らしい。自分でタイプした文章や絵をうまくレイアウトして、しかもかってに自費出版している。いろいろな意味で自由ですよね。

 本人に会ったのはそれから数年後、彼が東京に来た時のことです。当時、渋谷・桜丘にあった自分の事務所に来てくれて三時間くらいずっと話し込みました。テッド・ネルソンのことは、未だにみんなきちんと理解できていないのではないでしょうか。彼は「人間の知性は高次元の構造物であり、ハイパーテキストはその記述を可能にする」と言っています。つまり、ハイパーテキストは、文章のようにシーケンシャル(一次元的)に書き出すということはなくて、すでに紙というメディアから解放されているわけですから、複数次元の構造物をそのまま保存できるということです。ところが、普通の人は知性というのは、高次元の構築物をことばという一次元の状態に投影する能力のことだとおもっているので、「ハイパーテキストは、シーケンシャルには読めないからダメだ」と否定的に評価してしまっているんですね。

 実際、彼自身がハイパーテキストみたいな人だから、みんな彼の言っていることが理解できなくなっちゃうんです。会っている間も、話の途中でも、どんどん新しいことを思いついて、話題が分岐していっちゃうから、みんなそれについて行けない(笑)。最初に会った時も、しゃべりながらポストイットにとどまることなくメモを取って、ノートに貼りこんだりして、忙しくて、変わった人だなと思いました。

 彼とはその後もずっと親交があり、九〇年に北海道大学の田中譲さんに呼ばれて彼が来日した時も、松岡正剛さん経由で呼ばれたことがあります。そうこうしていたら、後にSFCの学部長の斎藤信男先生から「テッド・ネルソンをSFCの客員教授に呼ぼうと思うのだけど、どう思う?」と相談され、もちろん「YES」と答えました。実際彼はその後SFCに来てくれたので、数年間はいっしょのキャンパスにいました。テッド・ネルソンは、今は故郷ともいえるサウサリートに戻られましたが、本当に天才的な人だと思います。


 マウスを発明したダグラス・エンゲルベルトが初めて来日した時には、テッド・ネルソンと学部長だった斎藤先生(現、駒沢大学)と四人で中華街にご飯を食べに行ったこともありました。エンゲルベルトは、一九六八年十二月九日にサンフランシスコのコンファレンス会場で伝説的なデモをします。バロアルトの研究所にあるコンピュータと会場をつないで、会場から研究所のマウスを動かして、その画面をビデオで中継したのです。それまでのようなタイプライター状の文字しか出ないディスプレイとはまったく異なった画面がそこにあり、マウスで文字などを選択し、移動させたりできるのです。この時の動画がYouTubeに上がっていますが、当時の驚きと興奮は本当にすごかったでしょうね。ところで、彼はそれまでにも日本側から招聘の話があったそうですが、いつも来ることを拒んでいました。実は、アメリカが日本に原爆を落としたので、日本人はアメリカ人を恨んでいるに違いないと本気で思っていたそうです。この時初めて日本に来て、そうでは無かったので、「ホッとした」と言っていました。そういう誠実な人なんです。

 

 振り返ってみると、八〇年代はその後のコンピュータの可能性を示唆する予言の塊みたいな時代だったと思います。まだインターネットが始まっていない時代で、八〇年代後半には、PDS(Public Domain Software)といって、コピーライトフリーのソフトウエアをフロッピーディスクで交換しあったりしていました。ま、今から考えると、ヒッピーイズムの延長線というか、楽観主義的な自由思想の温床だったと言っていいかもしれません。でも、それがみんなの創造性を急速に刺激したわけです。誰でもが新しいアイデアを提案できたし、誰でもが他人のアイデアに自由に触れることができたという時代です。なにもかもオープンで、どこにも悪者はいなくて、全世界が性善説でできていました。

 その当時ヒットしたハイパーカード・スタックで、“The Manhole”(一九八八)というゲームがありました。箱には、”Fantastic exploration for children of all ages”(「年寄りを含むすべての子供のためのとんでもねー冒険」という感じでしょうか)とか書いてあるんですよ。中身はまだなんと複数枚のフロッピーディスクでした。内容的には、不思議の国のアリスのような世界観の中に、かつて子供の頃に、どこかで見たような、いろいろなキャラクターがいて、出会うと必ず「あ、そう。あっちの方へ行ってみたら?」とか、話しかけてくる。机の電話を取るとホンモノの電話のように音がして、返事が聴こえてきたりする。もう興奮せざる負えませんよね。非常にシンプルなものなのですが、シンプルであるが故に、リアリティーがあったし、これからやってくるであろう未来を感じさせたものです。ここには、楽観的な未来が投影されていたということもできますが、今の若い人がこうした時代を知らないのはとても残念なことだと思います。

 その後、CD-ROMが出て、コンテンツを販売流通するためのインフラが出来上がってきたので、ソフトウエアハウスがやっていけるようになってきた。当時は、日本でも、ベンチャーのソフトウエアハウスが出てくるのではないかと言われたけど、結局はそうはなりませんでしたね。日本国内の市場規模の小ささと、言語の壁ですかね。そうこうしている内に、CD-ROM出版でがんばっていたデジタローグの江波直美さんも亡くなってしまったし、レーザーディスク社にいた萩野正昭さんが、Voyager Japanを始めて、それが青空文庫につながっていったりはしていますけど、なかなか難しいものですね。「マック書道」というとてもユニークな筆で絵を描くソフトを出していた演算星組というおもしろいソフトハウスもありましたけど、国内事情としては総じて趣味的な世界で、これを事業化できるビジョンが足りなかったのかもしれません。

コンピュータによる彫刻

 一九八四年暮れにSEDICを辞めた後に、大手のCF制作会社である太陽企画さんを紹介してもらいました。そのCG制作部門の立ち上げを手伝うことになり、そのためにつくったのが株式会社フロッグスでした。太陽企画社内にCG室を整備して、それまで一緒にやってきていた太田昌孝くんの書いたレンダリング・ソフトウエアをインストールして、配属された社員にCGの使い方を教えるというプロジェクトでした。

 一九八七年の《Geometric Love》というコンピュータを使った彫刻作品は、この太陽企画のコンピュータを使ってつくった作品です。モデリングソフトを太田くんが書いて、千代倉弘明さん(当時はリコーで3DCADを開発、後に慶應大学)経由で紹介してもらった工作機械メーカー・牧野フライスの工作機械で最終的な素材を削りだすわけです。機械の動きを事前に確かめるために、毎晩XYプロッターで工作機械用のデータを出力していました。XYプロッターの出力は、独特で今見てもすごく綺麗ですね。考えてみると今の3Dプリンタみたいなことをスクラッチから手探りでやっていたわけです。実際に三次元の数値制御工作機械を使うには、いろいろなノウハウが必要です。何も考えないで裏表を削ったら支えが無いので、仕上がる直前に重力で落っこちてしまいますので、事前に落ちないよう仕掛けを作っておかなければなりません。また、刃物そのものが、動く時には力によって本当に多少ですが、左右に歪みますから、その誤差が見えないようにするための工夫も必要です。こういった問題を考えながらデータを作らなければならないのです。太陽企画のコンピュータを使って夜中に計算をして、それを確認して、朝になると目黒の牧野フライスに磁気テープに入れたデータを持って行くという作業を、毎日繰り返していました。この時の彫刻《Geometric Love》は、一九八七年にギンザ・グラフィック・ギャラリー(大日本印刷)で展示しますが、作品自体は完全に自分の自主制作でした。

 一九八九年には、光造形(Stereo Lithgraphyとも呼ばれている)で、立体作品《Forbidden Fruits》を作りました。《Geometric Love》から、二年しか経っていませんが、データを運ぶためのメディアがオープンリールの磁気テープから、8ミリ幅のストリーミング・テープに変わっていました。記憶媒体の進化の速度は今もまだ落ちていませんが、あらためて考えてみると、その速さにやっぱり驚かされますね。

 このプロジェクト《Forbidden Fruits》のきっかけは、またもや千代倉さんから、「液体の樹脂に紫外線を当てて固めて立体をつくる技術がでてきた」という話を聞かされたことです。実際に、「ソリッド・クリエイター」という名前の光造形システムをソニーとともに開発されていた日本合成ゴム(ブリジストンの子会社)を紹介してもらいました。さらに、その元になる特許を持っている丸谷洋二(大阪府立総研)さんにもお会いするためにわざわざ大阪にまで行きました。最終的に、日本合成ゴムが僕の提案に乗ってくれたので、展覧会のための作品制作を協力してもらえたのです。

コンピュータと身体

 《Geometric Love》は、本当に自分から実現したいと思って始めた最初の仕事です。そこまでしてもやりたかったのは、長くCGの制作に関わってきて、コンピュータのディスプレイ上でイメージとしてCGを見てきたわけですが、当然ですが直接に手でその形に触れることができるわけではない。三次元のデータを扱っているのに、データ自体はイメージを作るための素材に過ぎない、CGの目的は立体を作ることじゃない。でも、それが段々と大きなフラストレーションになっていった。CG内で作っているのはデータの定義であって、物質を伴う工作じゃない。シミュレーションにすぎないので、要するに作ったことにはならないのです。今でもその感覚は変わりません。物質性をすべて無視しているから、拠り所になる絶対性がない。そのかわり、物質性や重力からは自由であるところがCGの特徴です。

 実際に三次元の形状データをもとにして、実際に触れることのできる物を作ったのですが、できてみると直接にそれに触ってみても、本当にデータに触ったことにはならないということが判りました。つまり、素材となる木が削られて、そこに作品の形が出現するのですが、それは刃物が動いたときに、そこにたまたま木という素材があったから削られているだけのことに過ぎないのです。なにも素材がなくても機械は言われたとおりに動くだけです。形とそれを現実化させている素材の間に交流がない、データと素材との間には関係がない。色彩があるのに支持体がないような状態です。空気中にスプレーを吹いているようなものです。

 それでも、作業中、機械がかってに動いている姿は、それはそれで非常におもしろい。まるで、そこに遺跡が埋まっていて、そのことをあらかじめ機械側は知っている。機械は、非常な確信をもって作業にあたっているという感じです。これは、従来型のものづくりとはものすごく違っています。まさに、これまでなかったものがこのプロセスにあるということは確実ですが、それは人間の手と素材との交流の中から生まれて来たものではない。


 この感覚は、細野晴臣さんが「YMOをやっていた頃の音楽は、頭の中で作っている感じで、下半身がなかった」と言っていたのと似ていると思います。YMOはコンピュータを使ってつくった音楽に、どうやったら身体性を持たせることができるか、ということを探求していたと思うのですが、僕もCGを身体的なところに落とし込むことに興味があって彫刻をつくった。その結果、従来の考え方では捉えることのできない立体物を数多く作ることができたのも確かなのですが、結論から言うと結局僕はデータに触れることはなかった。データに生命を与えるためのプロセスと行為は、エロスの欲動そのものかもしれませんが、出来上がった対象物は死そのものしか表象してくれなかったということですね。

 音楽でも、例えば、クラフトワークはそういう問題をわかった上でやっているのだと思います。今でこそライブでも打ち込みをやるのが当たり前になっているけれど、テクノミュージックが出てきた時に違和感があったのは、プリセットされたものをどうしてライブでやるんだ、ということです。YMOでアナログシンセを担当されていた松武秀樹さんは、演奏中は、機械の熱で音のピッチが変わってしまうので、絶えずどこかのツマミを調整していなくてはならない。配線と接続(プログラミング)に手練手管が必要なので、秘教的な雰囲気がありました。あの頃のテクノにはそういう両義性があって、概念やプログラムといった論理的な部分にどこまで身体性を盛り込めるかというチャレンジがありました。ハードウエア的にも、まだどこかデジタルになりきれないアナログ的な部分も多く残っていました。なにしろ当時、YMOもクラフトワークも作品のリリースは、アナログのヴァイニール・レコードですからね。デジタルは部分的な利用でしたから、デジタル化と身体の関係は大きなテーマだったのです。


 八〇年代後半から九〇年代にかけて、アメリカの六〇〜七〇年代のカウンターカルチャーの流れがこの時期に収斂していったところに、ポンッとインターネットが来る。バブル経済のグルーブ感、東京の都市生活とサブカルチャー、アカデミズムでいうところの技術みたいなものが、ワーっと凝縮されてくる。アメリカではそれぞれが棲み分けされているけれど、日本ではそれが東京で一緒くたになっちゃう。さらにそこにフランス現代思想も混ざって、ニューアカデミズムも食い込んでくるわけです。まったく別個の出自を持った商品も思想も概念もハードウエアも、東京で出会って摩擦しあって、興奮している、そんな感じでした。

コマーシャリズムからアカデミズムへ

 八九年にはNHKのプロデューサーであった桜井均さんに頼まれて、名古屋の世界デザイン博覧会にあわせて、三十分番組×三本構成の「形と幻想」という番組をつくっています。桜井さんははじめに「デザインというのは、大量に生産した商品に意味付けをして消費者に買わすんだから、ある種の全体主義じゃないのかね」とか言って、僕を振り回すのですね。近代化の過程における装飾とデザインの違いとか、テレビによるイメージの複製が及ぼす影響とか、無重力とデザインとか、死後の世界の設計とか、僕もデザイン科出身ですが、こういったアプローチでデザインを考えたことは無かったので、ものすごく勉強になったし、そもそも楽しかったですね。

 同じ頃、ハイビジョン放送の出始めだったので「《Mandala》のハイビジョン版をやりませんか」と言われたこともあります。当時、僕は既にCGで、1024×1024の解像度のモニターを使っていたので、ハイビジョンなんていまさら馬鹿らしいと思って断り、「ハイビジョン不要論」というのをどこかの本に書いたこともあります。要するに、映像を記号の発信と受信のメディアとして扱うのであれば、NTSCの解像度で十分で、これ以上に解像度を上げると、余分なノイズが増えて記号的な情報の圧縮ができなくなるという話です。話の内容よりも服装や背景が気になってしまうということです。そちらを目指すなら映画というメディアがすでにあるわけですが、ま、現実的には4Kまで来ている現在まで、この高解像度の意味を十分に活用しているコンテンツはでてきていないのではないでしょうか?

ハイビジョンが出てきた時に使われていたデモ映像、例えば、エーゲとかテキサスとか砂漠とか、今回も使われている。すべてがデジタルになった時にいまだにリニアなコンテンツしか作れないのですからね。まったく、「俺にやらせろ、」って感じです。


 八〇年代後半は、本当にいろいろな仕事をしていました。だいたい広告の仕事というのはスタートから納期までが、とても短かいのです。三週間くらいで納品しなくてはならないものばかりで、これだと本当に自分のやりたいことができない、半年とか一年、時間をかける仕事をしたいと思うようになってきたのです。なんとなく行き詰まるというか、仕事でプロポーザルを書いても通らなくなってきた時に、慶應義塾大学が湘南藤沢キャンパスをつくるからその教員にならないかという話が来た。

 当時はアーティストが一般大学の教員になるというのは、ものすごく珍しかったと思いますが、これを受けたもう一つの理由はインターネットです。インターネット黎明期は、アカデミズムが中心でしたから、普通の人がIPアドレスを割り当ててもらうことが非常に難しかった。なかなか自由にアカウントをもらえなかった。そもそもどこに接続すればいいのかもわからないという時代です。そういう時にSFCはキャンパスで、クラスB(256×256のIPアドレス)をまるごと持っていましたからね。村井純さんもいたし、当時のSFCはインターネットの実験場でした。

 慶應義塾大学で教えるようになったのは一九九〇年からですが、当初は割り振られた機材費の少なさに驚かされました。それまではコマーシャルの世界で数千万単位のお金が動いていたのですが、数百万円と聞かされて、それじゃ何もできないと落胆したのを覚えています。だから最初はすごくきつかったですね。

 二年目から実際に授業が始まると、今度は腸捻転になりそうなくらいに苦しみました。というのは、コマーシャルな仕事というのはプロデューサーが入るから、自分が剝き出しになって人前にさらされるようなことはないのですが、学校の先生というのは学生の前では剥き出しで、どこにも隠れようがないのです。これは本当に辛かった。二〇〇五年に東京藝術大学に映像研究科をつくって、映画業界から新しく大学教員としてお迎えした先生方も、みなさん似たような気分だったのではないでしょうか。まさしくカルチャーショックで、学校に行きたくないあまり、一時は本当にお腹が痛くなってしまいました。

 着任してすぐに、学校のパンフレットのデザインしてくれませんかと頼まれたことがあるのですが、デザイン料を訊いたら「それは出ません」という返事が返ってきた。同じ組織の内部では、こういった仕事に対してお金が出るわけではないんだ、ということもその時に知りました。

 また、新入生のオリエンテーションで、二十人くらいの学生の担任みたいなことをやらされた。まだ10代の学生をどこかに連れて行って一緒にご飯を食べたりするイベントを組むわけです。当然ですが、学生たちはランダムに割り振られてくるから、僕とは特に関係ないわけです。僕が何をやっている人かを知らない学生ばかりで、美術・芸術に興味なんて持ったこともない学生です。おもしろかったですけど、こういう学生たちにどう対応していいやら本当に困りましたね。

インターネットのインパクト

 CGから、インターフェイスやネットワークというところに関心が移るのはSFCに着任してからです。設立当初のSFCでは、新入生向けの情報処理言語の授業を村井純さんや徳田英幸さんという錚々たるメンバーが担当していました。その最初の授業を僕も覗いたのですが、リモートログインでアメリカの国会図書館に入り、向こうのデータベースのサーチエンジンを使ってリアルタイムで検索する、といったデモンストレーションをするのです。これはすごいことだと思いました。そこでは日本の著名な著者名を入れてもなかなか検索でひっかからないというオチも付くのですが(笑)、インターネットは間違いなくこれからのトレンドになると確信しました。

 すでにCGをやっていたのでUNIXというOSも知っていましたから、僕はまったく無理なくSFCのUNIX環境に馴染んでいました。大学院ができた頃に、当時住んでいた葉山町の自宅にISDNを引きました。葉山町ではセブンイレブンに次いで二番目だったそうです。その頃のサーバマシンはすべて固定アドレスでしたから、家にあるUNIXマシンをISDN経由で、NFSマウントするために、サブネットを切らなくてはならなくて、クラスCを自分の研究室で二個持っていました。つまり、IPアドレスを固定で256×2=512個も持っていたのです。今ならこれで十分レンタルサーバ屋ができます。


 僕のなかでは、九四年、九五年頃のインターネットの盛り上がり感というのは、八三〜八四年のCGの盛り上がり感とそっくりでした。いずれも、中心は情報科学ですが、そこにアーティストが加わっていくという構図でした。最近(二〇一〇年以降)は、スマートフォンが出てインタラクティブな可能性が一挙に一般化した感がありますが、内容的には二十年前に生まれていたものを、あらためて大衆向けに焼き直しているように僕には見えて、新しい感じがしないので、いまいち盛り上がれないでいます。

 インターネットの世界は、九三年の暮れにMosaic(最初のウェブブラウザー)が、NCSAからリリースされたことで、ガツンと変わりました。当初は全世界にウェブ・サーバが数千個くらいしかなくて、毎日新しいホームページが出現してくるんです。「今日は新しいサーバが三十個できてるぞ」みたいな感じの毎日でした。最新のサーバへのリンクがNCSAのトップサイトに出ると、みんなそこをクリックする。ダライ・ラマの声を聞くことができるサイトができて即座にアクセスしましたが、これがまたすぐには聞けない。ダウンロードするのに二十分くらいかかってしまうんですよ。長い時間待って、やっと聴けたダライ・ラマの声は、それはそれはありがたいものでした。

 その頃、ゼロックスがつくったLambdaMOO(オブジェクト指向のMUD(Multi-User Dungeon)と呼ばれるもの)を研究室の江渡浩一郎くんが日本語化してSFC内で、AndroMOOというサーバーを動かしていました。MUDは文字だけのコミュニケーションですが、ネットワーク経由で複数のユーザーとひとつの仮想空間を共有するというものです。空間の中では、参加者は自分の家を持ったりすることができ、他人の家へ訪ねて行って会話したりできるわけです。大学院の授業をAndroMOOの中でやったこともあります。自分は大学へ行かずに、葉山の家から大学のネットに入って「みんな集まってますか?」とかタイプして、「出席を採ります」とか言っている内に、みんな次の部屋に移動しちゃったりして。受講生はみんな自分のコンピュータからネット経由で、AndroMOOの世界に入るんです。一度、日本語を勉強しているカナダ人が、どういうわけかカナダから授業を受けていたこともありました。

 AndroMOOは、一昔前に流行ったSecond Lifeのテキスト版みたいなものですが、日本語が使えた最初のものだと思います。例えば、大阪弁の部屋や山瀬マミの部屋というのがあって、入力したテキストが辞書によって大阪弁や山瀬マミの言葉遣いになって表示されるのです。「僕は、行きません」と入力しても、「わいは、行けへん」と画面には出力される。これは本当におもしろかった。このおもしろさは、学生と教員という閉じた顔の見えるコミュニティーの存在が前提になっているからなのだと、今だからいうことができます。


 その頃の藤幡研究室には江渡浩一郎くん以外にも、川嶋岳史くんもいて、サーバは学生も立て放題。研究室のドメイン名にはディズニーのキャラクターの名前を順番につけていたので、ミッキーやミニー、ドナルドなんていう名前のサーバが研究室にありました。その頃のインターネット上で話題になっているソース・ファイルをジャンジャンダウンロードしてきては、それをコンパイルして自分のサーバで動かすといったことを、みんなと一緒にやっていました。そういうところから、富士山サーバや《Light on the Net》(一九九六)が出てきたんです。

 《Light on the Net》はインターネットを使った最初の作品と呼べるものです。当時、僕は春と秋の二回、学生に課題として展覧会を実現させるようにしていて、その年のテーマは照明をつくるというものでした。かわいらしいキャンドルの照明をつくる女の子がいたり、わけのわからない論理をこねくりまわす男の子がいたりいろいろでしたが、祐川良子さんのアイデアは、キャンパスの中にスイッチをばらまいて、そのスイッチを押すとどの電球がつくかわからないけれど、どこかで電球がつくというアイデアでした。それはおもしろいから、インターネットからアクセスできるようにしようと言って、川嶋くんら上の世代が手伝って実現したのが始まりです。本人は途中で「これは自分の作品じゃない、こんなつもりじゃない」と怒っていた時期もありましたけれど(笑)。

 それが面白かったので、規模を大きくしたものを岐阜のソフトピアビルに設置したのです。これは世界中からアクセスがあって、毎日感謝のメイルが来ました。最近フランスで会ったパブリック・アートの研究者が、このプロジェクトのことをちゃんと知っていたのには驚きました(Virginie Pirnguetの論考は、三月発売にMasaki Fujihata Annarchive 6 に収録)。

ゴールデン・ニカ受賞の顛末

 《Global Interior Project#1》を発表したのは、九五年にICCが開いた「on the web - the Museum Inside the Network 〜 ネットワークの中のミュージアム」展でした。まだ初台にICCがオープンする前のことで、会場は青山のスパイラル・ビルでした。

 これはそもそも「インタースペース」というISDNをベースにした仮想空間を共有するシステムをつくっているNTTの研究者(NTTヒューマンインターフェイス研究所、鈴木元さん)と一緒に何か作品制作できないかという打診があり、それに対して僕が出したアイデアから始まったプロジェクトです。最初のヴァージョンは研究所の人たちと一緒にプログラムして、「on the web」展(一九九五)に展示したのですが、次の年の夏のSIGGRAPHのアート・ショウに向けて、これをプロポーザルにして送ったら、なんとアート・ショウの審査に通ってしまったのです。しかし、研究所の鈴木さんに「インタースペースは、ISDNを前提として開発されているので、そんな短期間にLAN用のヴァージョンを作るのは難しい」と言われてしまった。折角、審査を通ったのに実現が難しいという話になってしまった。仕方がないので、研究室の村上泉くんと川嶋岳史くんに声をかけて、二人がスクラッチからこれと同じ動作をするプログラムを書くことになりました。ずいぶん無茶なことをやったと思いますが、その《Global Interior Project#2》は、 SIGGRAPHでちゃんと動きました。荷物の輸送費用の負担等で、NTTも手伝ってはくれましたが、結局予算が足りないので、それ以外に知古を頼ってNECのデザイン部の方や、アスキーの西和彦さんに寄付をお願いしたりして実現したプロジェクトです。

 幸い、この《Global Interior Project#2》(一九九六)は、アルス・エレクトロニカのゴールデン・ニカを受賞したのですが、日本からアメリカ、さらにオーストリアと荷物を転送するのは通関等含めて、とても大変なのです。当時、「ゴールデン・ニカを貰って、予算があると、こんなシッピングができていいね」とか言われたりしたのですが、それはまったくの誤解で、必死で予算を集めていたのです。


 これらを含めて、九〇年代半ばには、まったく違うプロジェクトが、平行して六つくらい動いていました。九三年くらいからはキャノンからの支援で、《カラー・アズ・ア・コンセプト》というデジタル時代の色彩を考える研究と授業を四年くらい続けていましたし(これは九八年、ZKMに行く前に美術出版社からCD-ROM付きの書籍として出版)、九二年にはGPSを持って富士山に登って、それを可視化するプロジェクト《生け捕られた速度 Impressing Velocity》を進めていて、九四年やっと南麻布にあったICCのギャラリーで展示をしました。九五年には上記の《Global Interior Project》があって、同時にIPA(情報処理機構)が推進していた電子図書館プロジェクトで、慶應義塾大学が受け入れた情報基盤センターのオープニングにあわせて《The Future of the Book of the Future》という展示の企画展をやり、そこに《Beyond Pages》を作って展示。同時に、岐阜ソフトピアとの共同研究で上記の《Light on the Net》を制作設置しています。

 よく、《Beyond Pages》がゴールデン・ニカを受賞したと勘違いされているのですが、そもそも《Global Interior Project#2》と《Beyond Pages》というまったく文脈の異なる二つの作品を、同じ人が同じ時期に作っている、というのが普通じゃないですね。

九〇年代のインターネットを取り巻く環境の変化

 ともかく、当時のインターネットが与えたインパクトは本当に大きかった。これまであったものが、これからはどう変わるのかということを考えさせられたし、それを確かめるための実験もやった。毎日、ものすごく想像力を刺激されました。当時よく議論したのは「ネットの中の距離はゼロである」ということです。身体は移動しないのに、意識はコネクションされた相手側に行く。そうやって身体が断片化されていくということに対して、我々は何ができるのか、ということです。九四、九五年頃にはそういう観点から作られたサイトがあちこちにあって、「こうすると、こんなことができる」という実践的な実験が一杯でした。みんなそれに飛びついて、見に来て(行って?)盛り上がるということが毎日のように起きていたので、毎日が興奮の連続でした。

 ところが九〇年代も後半になってくると、インターネットは商業利用に向けてシフトしていきます。みんなビジネスの話ばかりするようになっていく。最初は、ワインや本という、まだ実体と結びついたビジネスでしたが、次第に「誰が何をやって大儲けしたか」といった話ばかりになってゆく。

 アルス・エレクトロニカも九六年に、ウェブ・アート部門ができますが(伊藤穣一(現MITメディアラボ所長)が、審査員の一人だった)、三、四年経つと「ウェブ・アートのおもしろい作品が応募されて来ない」と言っていました。どうも、ビジネスの方へ優秀な人材がみんな行ってしまって、実験的なことをする人がいなくなったのかなと言ってましたね。「ネット・アート」は、正味五年も保たなかったことになります。


 九六年という年は、アルス・エレクトロニカにとって大きな変化の年です。それまでのディレクターだったピーター・ヴァイベルが降りて、ゲルフリート・シュトッカーに引き継がれ、また、それまでは建物を持たないフェスティバルであったアルス・エレクトロニカが、とうとうセンタービルを持つことになりました。フェスティバルの固定化です。たしか、ゲルフリートは当時三十歳というすごい抜擢でした。当時のネットに絡む話題は、もっと社会的なもので、アーティストよりもメディア・アクティビストたちの活動が全面化していました。社会学、カルチュラル・スタディーズ系の人たち、新しいシチュアシオニスト(状況主義者)、ネット・アクティビストと呼ばれる人たちが、メディア技術による社会構造の変化や、ネットの発達による民主主義の変化について、ガンガンに議論していましたね。それまで、ミニコミを作っていた人たちも、インターネットに移行してくる。インターネットのおかげで、エレクトロニック・アートが拡大して、アートの世界も社会的な問題意識なしでは、語ることが不可能になっていった、そんな時代です。

ICCとの関わり、ZKMへのレジデンス

 九〇年代後半に、東京のICC、オーストリアのアルス・エレクトロニカ、そしてドイツのZKMという、三つのメディア・アートに関わる組織が、同時にしかも同様の目的で立ち上がったのはとても印象的でした。僕はたまたま、これら三つの組織に深く関わることになりました。慶應義塾大学での活動から、ICCの準備期間にいろいろなプロジェクトの実現をサポートしてもらい、それらが元でアルス・エレクトロニカでの受賞があった。さらにその後は、ZKMでの客員芸術家としての滞在を経て、慶應を辞職して東京藝術大学に新しくできた専攻(先端芸術表現科)に移るという慌ただしい変化でした。

 ICCとの関連では、一九九一年に浅田彰さんが中心になってやった「電話網の中の見えないミュージアム」にも、実は声をかけてもらっていたのですが、この時、僕はあまりピンと来なくて依頼を断ってしまった。そうしたら後になって浅田さんがある雑誌(博報堂が出していた『広告』)の対談ということで、わざわざ僕の事務所に来られて、なんとなく断った理由を訊かれました。それが影響したのかどうか、わかりませんが、九一年の暮れに建築家の入江経一さんと一緒に展示を実現してもらえないかという依頼が来ました。それが、翌年に《脱着するリアリティー》として結実します。これは、とても予算のかかったプロジェクトでした。赤外線のヘッドホンを使って、室内のそれぞれの場所で異なった音が聞こえるというインスタレーション型の展示で、「メディア技術の進化によってわれわれの身体は断片化されつつあるのではないか?」という問題がテーマのインスタレーションでした。当時は、まさにバブルの時代で、ICCにも信じられないぐらいの予算があったそうです。いま思うとそのままこの予算を基金化して、ICCを文化財団にしておけば、現在でも継続的にいろいろなことができたのではないかと思いますが、現実的には会社として、いろいろと難しかったのでしょう。とはいえ、結果としては、ICCには技術も人材も集まったし、その後各大学にメディアアートの専攻ができる素地もこういったセンターの立ち上げが刺激になったはずで、そこで活躍する人材も育てたという側面があります。当時の東京でドイツやオーストリアと同じ水準での議論ができる環境をつくった功績は大きい。戦後の文化史の中で海外に影響を与えることのできた数少ない事例のひとつではないでしょうか。


 九七年には、九六年のアルス・エレクトロニカに続いて、ドイツのZKMがオープンした年でもあります。ビジュアル・メディアのディレクターであったジェフリー・ショーとすでに知り合いであった僕は、九五年にZKMが毎年開催していた「マルチ・メディアーレ」という企画展示を見るためにわざわざカールスルーエに行きました。ちょうどその時は、岩井俊雄くんがレジデンスをしていて、岩井くんはミディ・ピアノの鍵盤を押すと音が映像になって飛ぶという作品を展示していました。

 ZKMは、シンガーミシンの工場跡地の有効利用の話から始まったプロジェクトで、当初は建築家のレム・コールハースが、カールスルーエ駅の駅舎の上にZKMをつくるはずだった。ところが、それに緑の党が反対したことによって一旦はポシャってしまいますが、後に街はずれに残されていた第二次世界大戦時の兵器工場を使う案が浮上して現在に至るわけです。兵器工場ですから、非常に大きな建物で、ZKMだけでは全体が埋まらない。近代美術館や造形大学もいっしょに入れる施設としてプロジェクトが再スタートしたのです。ZKMの最初のディレクターは、ハインリヒ・クロッツといって、フランクフルトの建築ミュージアムを成功させた人で、政治的にも内容的にも、予算規模からいっても、ちょっと想像のつかない大きなプロジェクトでした。

 それで、結局のところ、僕はZKMがオープンした翌年の九八年に、慶應義塾大学からサバティカルをもらって、客員芸術家として行きました。


 この頃は、ちょうど、それまでのいろいろなテクノロジーアートが、メディアアートとして定着していくような流れがありました。そういう中でマスメディアからも「これがどうしてアートなんですか?」という切り口の取材も多くなりました。ZKMの初期の駅貼りのポスターも“Touch Me”というものだったのをよく覚えています。それまでは「作品に触らないでください」と言っていた美術館が、今度は「触ってくれ」と言うようになったというわけです。

インタラクティブの考え方

 一般的には、“Touch Me”に象徴されるような「インタラクティブ」という概念について意識し始めたのは、八〇年代後半にコンピュータで彫刻をつくっていた頃のことです。プログラムを組んで材料を加工した結果として彫刻ができるのですが、つくるプロセスでコンピュータとの間でのやりとりがあって、その間はやってみて直しては、またやってみて直す、というインタラクションがあるわけです。そこには当然タイムラグもあるし、プロセスも複雑なわけですが、そのインタラクションをしている間にどういう創造性が生まれるのかということの方が、できあがった作品よりもおもしろいと思ったものです。そういうなかで、この「つくるプロセス」をユーザーと共有できた方が、できあがった作品を見せるよりも、おもしいんじゃないかという考えが当時からありました。

 こういった機械との関係は、そのままでは作品にはならないなと思っていましたが、岩井俊雄くんはインタラクティブなものを上手に作るし、ジェフリー・ショーも大型の予算を使った作品をアルス・エレクトロニカなどに出していたりしている。例えば、彼の《The Golden Calf》という作品は、中に出てくる牛の3Dモデルはシリコングラフィックス・コンピュータを買うと付いてくるデモ・データですからね。彼の創造的な部分はそこにはない。ただの3Dデータに、どういうインターフェイスを付けるかということ、デジタル・データに正しいコンテクストを設定してあげることが彼の言いたいことなのです。「ゴールデンカーフ(金の子牛)」というキリスト教を背景としたテーマを、そのデータに付与しているだけ。何も新しくモデリングなんてしていない。なので従来の美術観でいえば、実際は何も作っていない(笑)。それはもう尊敬するぐらいに、ユーモアのある、ユニークな人なのです。


 九〇年代後半には、「メディア・アート=インタラクティブ・アート」みたいな議論がよくあり、非常に考えさせられました。八〇年代から、コンピュータを使った作品にどうやって身体性を持たせるかという問題意識が僕の中にはあったわけですが、九〇年代になって、インタラクティブだったり、バーチャルだったりといったメディア環境が出現してきて、それまでは言葉の上でしか議論できなかった概念的な世界を、実際に体験することが可能になった。こうなると思考や認識が具体的に変容してしまうことも起こってくる。

 インタラクティブの捉え方には、いくつかの流派があります。ひとつは「予測不可能な反応が、ユーザーの入力によって起こるのがインタラクティブな環境だ」というものです。例えば《Interactive Plant Growing》(一九九二、クリスタ・ソムラー、ロラン・ミニョノー)では、植木鉢の植物にユーザーが触れることによって、画面上の植物が急速に成長します。これは現場で計算してリアルタイムにモデルを生成・表示をするので高速なコンピュータが必要になる。アルゴリズム化された成長過程のパラメーターがユーザーの触るという行為によって変化するわけで、そこでどんな植物が生まれるのかは、作品を作った作家にもわからないわけです。予測不可能な結果が無限に現れるというのが、この場合のインタラクティブだという考え方です。しかし、この予測不可能性もアルゴリズムの範囲を出るものではありませんから、複数回作品を体験しているうちに、そのアルゴリズムが判ったところで飽きてしまいます。もうこれ以上の発見が無いという状態が生まれてしまう。


 僕は《Beyond Pages》を、こうしたインタラクティブという概念の議論に一石を投じるつもりで作りました。九四年に、MacintoshのPower Mac 8100が出てきて、これならシリコングラフィックスを使わなくても、コンピュータ上で全画面の切り替えができるし、インタラクティブな実験ができると判ったからです。ユーザーの個別のアクションに対して、しかるべき反応をビジュアルに返してゆくというものですが、ここでは「本」を規範にして、イメージと記号の関係を問題にしています。クリックした対象と、そこに出現するイメージの間にどういう関係があった時に、われわれの脳ミソは活性化するのかが問題なのです。活性化するとは、脳が注目することであり、そこに何かが新しく生まれるということです。ポイエーシス、ポエジーのことです。入力と出力の間にポエティックな関係なければいけないのです。上記のコンピュータによって自動生成される予測不可能な対象よりも、アーティストによって提案された、一元的に定義された予測不可能性の方が長く生き残るということもあるのではないでしょうか。ポエジーというのは、良質の本を読んでいる時や絵を見ている時、脳の中で起きている出来事です。このことは自明すぎてこれまで問題にされて来なかったし、問題を検証するためのプラットフォームそのものがこれまでは無かった。しかし、コンピュータによって生まれたインタラクティブな環境を用いることで、時間のあり方や、そこで行われる操作を机の上に目に見える対象として取り扱うことができるようになり、これまではできなかったような、出来事と反応の関係を実験することが可能になったと考えたのです。

 そもそも、コンピュータのプログラミングというのは、実在しない概念や現実にはない機能を、まるで物として実在するかのように考える(勘違いする)能力がないとうまくできません。メタファーをメタファーじゃなくて実体と勘違いできないといけないのです。上手くできたインタラクティブな作品というのは、それまではイメージとしてしか見えなかったものが、まるで機能を持ったオブジェクト(物)として認識されていくことによって、それがただのイメージではなくなるというプロセスを体験させるものなのだと考えます。スマートフォンの画面にタッチする時に起こっている出来事は、まさにこれなのですが、そのことを意識させないようにデザインされているのはちょっと残念なことです。


 もうひとつ事例を挙げたいと思います。《Small Fish》という作品は、表面的にはユーザーの入力によって音楽が変化してゆくインタラクティブな作品ですが、一番背後にあってユーザーからは見えないのは、音楽の構造です。その構造は、ユーザーがどんなに遊んでも崩れないようにできていて、その枠の中でインタラクティブに音楽が生成されてゆきます。これら個々の音楽の構造は、作曲家の古川聖さんが主に定義していますが、それぞれの構造は作品ごとに違いますし、それぞれの作品で使われているイメージやアイコンが異なっています。これらのビジュアルは、いわば楽譜のようなもので、インタラクティブに反応する「グラフィック・スコア」なんです。Small Fishという名前になる前には、Active Score Musicとこの作品を呼んでいたのですが、ZKMの音楽セクションのディレクターに反対されてこの名前になったという経緯があります。グラフィックが音楽を展開してくれるので、画像の意味、位置や反応は多次元化していて、非常に深みがあるのです。二年ほど前に台湾の美術学校を訪問した時に、大学院生たちの間で《Small Fish》が話題になっていました。「これはいわゆる楽器ソフトじゃない、本当によくできた音楽作品だ」と言われたのが、すごく嬉しかったですね。(現在、iOSアプリとしてAppStoreから購入可能。)


 九〇年代当時、インタラクティブについての議論はユーザーのアクションに対してどう反応するか、というところで止まってしまい、その後もあまり深まりはしなかった。インタラクティブとは何かということを、今もう一度議論し直してもいいと思います。ウンベルト・エーコが「開かれた作品」で提案した「鑑賞者が、参加者になる」といった議論だけではなく、今は、もっともっとその先があるように思います。

 インタラクションという事件は、機械と人間の間で起こっているのではなくて、最終的に人間の内部で起こる事件にならない限り問題としては浮上してきません。そうでなければ、ユーザーの記憶には残りません。情報工学と芸術ではなくて、認知科学と知の問題に移動してきています。つまり、インタラクティブ作品とは、何かを見たときに人はどうリアクションするかという、人間の反応としてとても根源的な部分を測る実験器具みたいなものなのだと、僕は考えます。そういう意味で自分の過去の作品を見なおしてゆくと、多くの作品は、認知科学の実験装置だといっても間違っていない構造を持っています。人間が世界に働きかけることによって、はじめて世界が作られてゆくのと同様に、人間が世界に創りだした道具(あらゆる対象、建築や都市といった環境やデジタル・メディア等の情報環境も含めての道具)が、われわれの世界の見え方を変えてしまう時代に突入しているのです。こういう環境では、これらの道具に対して、どういう意識を持って接しているのかということが問われます。


 こうした問題意識の中、ZKMでの滞在を経由して以降、従来型の美術が扱ってきたような美の保存や、広告業界が求めているような、人を驚かすための作品ではなく、メディアをデザインして、実際にそれを作りだし、それを使って展開する作品へと移行してゆくことになるのです。